■■■ 越前・若狭(福井県内)の中・近世城跡の紹介■■■

島城跡 (ふじしまじょう 福井県福井市藤島町)
中世越前「足羽七城の戦い」ゆかりの地
 

 南北朝期、越前における新田軍(南軍)と足利軍(北軍)の「足羽七城の戦い」は、太平記でも有名であるが、その中心となったのが黒丸城(福井市黒丸町)と藤島城(福井市藤島町)である。
 黒丸城には、足利一門最高の家格を誇る守護足利(斯波)尾張守高経が北軍全軍の指揮を執り、藤島城でも一度は南朝新田軍に味方をした平泉寺勢が見返りの恩賞で再び北軍に就き篭っていた。南朝軍の総大将新田義貞は、越後からの援軍も越前に到着し、足利軍が立て篭もる足羽七城への総攻撃にかかっていた。
 しかし、足利(斯波)高経が築いた七城連環城砦群は巧妙だった。実際には十数個の城砦から成り立っていたと考えられるが、一つ一つの城砦もさることながら、それらが相互に近隣に在り、全体で攻撃、防御に備えるつくりとなっており、一つの城を攻撃すると、他の城から出撃した兵が背後を襲う仕組みで、春先からはじまった戦いは長引きすでに夏になっていたのである。

 そして運命の建武五年閏七月二日がやってくる。この日新田義貞は、足利(斯波)高経の篭る黒丸城の向かい灯明寺に在り、新田軍の主力は平泉寺が立て籠もる藤島城を攻撃していた。最初は落城目前に見えた藤島城であるが、いつまでもその知らせがこず、逆襲に合うに至って義貞はわずか五十騎を従えて藤島城に向かった
 この時、高経方の黒丸城からも三百騎の足利軍が藤島城の救援に出撃し、義貞軍と行き当り遭遇戦となったのである。足利軍の兵は徒歩で楯を持った射手が多かったので一斉に弓を射たが、義貞方には射手は一人もおらずつぎつぎ射られ、義貞自身も深田のなかに倒れ、自刃に追い込まれた。あっけない最後であった。

 その平泉寺が立て篭もった藤島城跡は、現在の西超勝寺付近に比定されている。境内にはいまでも土塁の跡が残っているが、近くを通る京福越前線の敷設工事の際、城の遺構の一部といわれる館の山が崩されたこともあり、その縄張りを明確にすることは現在では困難となっている。
しかし、近くの神社、仏閣なども城跡の一部と考えられ、かなりの規模であったことが推定される。
 超勝寺は蓮如ゆかりの大寺で、一向一揆の指導者としても有名であり、朝倉氏に御堂を破却され加賀に追われたり、信長軍の兵火にかかったこともあったが、本願寺の東西分立とともに、超勝寺も東西に分かれ現在地に創建された。
 


地図はここです
 

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撮影2002年9月

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