■■■ 越前・若狭(福井県内)の中・近世城跡の紹介■■■

野寺城跡 (ふきのじじょう 福井県福井市冬野町・城山)
義貞没後の南北朝をめぐる戦いの地
 

 越前における南北朝の抗争では北軍の主役は越前守護の尾張(足利)高経、片や南軍の主役は新田義貞であるが、その戦いは大きく三幕に分類することができる。第一幕は新田義貞の越前下向からはじまる敦賀金ヶ崎をめぐる攻防であり、北軍の猛攻に対して新田義貞の城兵を残しての脱出と尊良親王の自害で幕を閉じる。第二幕は建武5年2月新田軍の府中(武生)攻撃から始まる、太平記でも名高い「足羽七城」を中心とした一連の戦い(藤島の戦い)である。義貞は守護高経に対して有利に戦いをすすめたが、合戦が長期化するなか同年閏7月2日、義貞は高経の籠もる黒丸城包囲戦線から、北軍支持に回った平泉寺が籠もる藤島城の攻撃の応援に赴くため僅か50騎を率いて出撃したところ、灯明寺畷で守護高経配下の部隊に遭遇、眉間に矢を受けあっけない最期を遂げた。南軍は一時恐慌状況に陥ったが、義貞の弟脇屋義助のふんばりで壊滅を免れた。この後義助は体制建て直しに向け幾つかの城砦を築いたが、蕗野寺城もこの時、源平時代の城跡を生かして造られたと考えられる。

 蕗野寺城は「連郭式山城」で尾根伝いに城跡が現在でも広がっている。麓の杉谷集落と南居の両方から登ることができ、複数の堀切跡を明瞭に確認できほか郭跡も散見できる。また頂上の主郭跡(標高202m)からの見晴らしは良く、南方には北軍が築いた経峰城のある経ヶ岳を見ることができる。守護高経も義助の城砦軍に対抗してこれを封じるように城砦群を構築していたのである。兵の動きは相互によく見えたのではなかろうか。

 暦応2年3月28日と同年6月29日には、蕗野寺城を拠点に北軍の経峰城に大規模な攻撃を仕掛けている。

▼尾根の途中にある郭跡 ▼南には北軍の経峰城跡が見える

 なお、この一帯(朝水)は古代から交通の要所であり、蕗野寺城、経峰城とも北陸道を眼下に見下ろせる位置にあり、両軍にとっても不可欠な要地であった。

 そして暦応2年7月義助の南軍は一斉蜂起し第三幕が開く。義助は守護高経を一旦は加賀に没落させるなど初戦は大いに成果をあげたものの、時代は南軍に風をもたらすことはなく、越前民衆の支持も得られなかった。はやくも9月には幕府からの応援を得た高経軍は反撃に転じ、9月15日、各方面から押し寄せた北軍の猛攻のまえに、蕗野寺城は落城となる。
 それからの一年間は南軍にとって敗退の連続であった。最後まで抵抗していた畑時能の鷹巣城も10月には落ち、ここに南軍は越前から完全に一掃されたのである。
 なお義助その直前越前を放棄して美濃に逃れている。

▼堀切跡(雑木でわかりずらい) ▼登り口案内

 城跡は現在地元の人達によって、登山道や案内標識が整備されており、容易に歴史に触れられるスポットとなっている。

地図はここです
 

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(初出 「福井商工会議所報」Chamber 2007年5月号)一部加筆
Copyright (c) 2007 H.Okuyama. All rights reserved.
撮影2007年

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