■■■ 越前・若狭(福井県内)の中・近世城跡の紹介■■■

ノ庄城跡 (きたのしょうじょう 福井県福井市中央一丁目)
 


 天正3年8月、織田信長は越前一向一揆を制圧し、府中竜門寺城から一乗谷を経て28日豊原寺に移ったが、9月2日その豊原寺から、一乗谷に代わる新たな越前支配の拠点として、北 ノ庄に出向き、自ら縄張りを行い、柴田勝家を越前北ノ庄城主に定めた。
 ここから、越前支配を委ねられた柴田勝家による北ノ庄城築城が始まる。

 勝家の北ノ庄城は、現在の福井城と比較すると、本丸の位置が大きく異なっている。それは、吉野川と足羽川が交差する場所、現在の柴田神社の位置と言われている。江戸時代の記録のなかに「北庄城地之事」として、「柴田勝家天正十一年四月廿四日生害アルハ、今ノ鳩之御門南之舛形之所、古ノ天守ノ跡也」とあり、絵図で確認しても、柴田神社の位置に符合する。

 もっとも、結城秀康が新城築城の際、旧北ノ庄城を破壊し、本丸も別の位置に移したため、現在その面影を見出すことは難しい。したがってその全容を解明するこ とは今日では困難となっている。

 天正9年4月、北ノ庄を訪れたイエズス会のルイス・フロイスは、築城をみて「甚だ立派で、今大きな工事をして居り、予が城内に進みながら見て最も喜んだのは、城及び他の家の屋根が悉く立派な石で葺いてあって、其の色に依り一層城の美観を増したことである」と記録している。

 しかし、勝家の支配は永くは続かなかった。信長が本能寺に倒れると、秀吉との後継争いから、天正11年4月賤ケ岳の合戦となり、21日秀吉軍に破れ北ノ庄城に逃げ込むも、24日浅井氏滅亡後再嫁した信長の妹お市とともに自刃し、落城した。

 この時秀吉は、戦況を小早川隆景に知らせるなかで、「柴田越州北庄居城事、城中に石蔵を高く築き、天主を九重に上せ候」と書いている。青光りする笏谷石で九層という壮大な天守閣が築かれていたことがわかる。

 柴田神社へは、JR福井駅前から徒歩5分で着くが、現在も発掘は継続している。

 

地図はここです
北ノ庄城発掘(PhotoAlbum)はここです (発掘現場の写真掲載)
 

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撮影2002年7月

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