■■■ 越前・若狭(福井県内)の中・近世城跡の紹介■■■

丸城跡 (くろまるじょう 福井県福井市黒丸町)
中世越前をめぐる戦いの拠点、越前朝倉氏勃興の地
 

 「太平記」の足羽七城の戦い(藤島の戦い )で有名な黒丸城の跡には、現在立派な碑が建っている。黒丸城(小黒丸城ともいう)は、いまから約600年あまり前、南北朝時代に越前守護斯波高経(しばたかつね)、正確には足利尾張守高経の拠点として築かれ、足羽七城の戦いの中心となった場所である。

 建武五年(延元三年)2月17日、京都奪回に向けた南朝全国一斉蜂起に応え、新田義貞は杣山城から出撃し、府中(武生)を押さえる越前守護斯波高経を破って国府を占領、20日あまりの間に足利方の諸城砦を次々と攻略し、高経は足羽庄・藤島庄に追い込まれ 、拠点黒丸城に拠った。
 しかし5月から始まった足羽庄での合戦は長期化し、新田義貞は閏7月2日、黒丸城の対城として築いた燈明寺城から、僅か50騎を率いて出撃した。
 高経方の足羽七城の中心である藤島城がなかなか落城しないため、攻撃の応援に赴こうとしたのである。ところが、途中 、藤島城防衛の応援に黒丸城より出撃した、斯波高経配下の細川出羽守・鹿草彦太郎の部隊300余騎に遭遇、戦闘となり、眉間に矢を受けあっけない最期を遂げたのである。 斯波方の死傷者は無く、無念の最後であった。
 尤も、斯波方もはじめは討ち取った敵方の大将が義貞とはわからず、高経が確認してようやく新田義貞本人とわかったようで、あわてて時宗の僧8名を派遣し遺体を収容させ、 長崎称念寺(現丸岡町)に送り葬儀を行い、首は京に送った。

 新田軍はこのため一時パニック状態となり、後退を余儀なくされるが、翌暦応二年、義貞の弟脇屋義助は体勢を建て直し、再度黒丸城を包囲する。守護斯波高経はやむなく城を放棄して 、加賀に逃れた。

 しかし、新田勢が黒丸城をはじめ足羽七城を支配下に置いた期間は長くはなかった。翌暦応三年、斯波高経らは越前の南朝方を攻撃、次々と城を落とし、8月17日黒丸城を囲み、20日の城攻めで奪還している。 後、脇屋義助は美濃に逃れている。

 その後越前は斯波氏の支配権が確立するが、室町期の守護は在京が原則で、特に家格の高い斯波氏は領国経営は被官人に委ねざるを得ず、斯波氏に従って越前に入った朝倉氏は、 この地に後の発展の礎をしっかりと築いていくことになる。

  現在この一帯は区画整理により、城跡をはじめかつての面影は何も残っていないが、昭和30年代までは古写真のように、それらしい雰囲気や濠跡の水田が見られたとのことである。
 なお黒丸城跡碑から少し北西に歩くと、近年建てかえられた白山神社の境内にぶつかるが、その鳥居の前には、建て替えに際して大きな石の供養塔が建立された。その碑文には黒丸城をめぐる攻防戦の将士などを祀ると書いてある。


地図はここです
 

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撮影2002年6月

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