■■■ 越前・若狭(福井県内)の中世城跡の紹介■■■

山城跡(まきやまじょう 別名東郷城 福井県福井市福井市小路安原町)
朝倉氏が築き、秀吉臣の長谷川秀一が居城とした城跡


 福井市東郷の南側で、浅水から大野に向かう旧美濃街道が東郷に入るところに、通称城山と呼ばれる一二二mの丘陵がある。越前朝倉氏四代下野守貞景(為景、戦国初代英林孝景の曽祖父)の弟東郷美作守正景が、一条家の荘園東郷庄を預けられ た時に居城し、築いたとされる東郷城(槙山城)の跡である。
 南北朝の抗争時、名族の越前守護斯波高経に従って一族あげて但馬から越前に入部した朝倉氏は、越前各地に支族を配置し、応仁の乱のさなか守護代に就任、越前を事実上の支配下に置いた。城は当初砦に過ぎなかったと考えられるが、朝倉氏の本拠一乗谷の重要な防衛拠点のひとつとして、戦国時代に整備されていったと考えられる。

 朝倉氏滅亡後は、柴田勝家を経て天正一二年(一五八四年)豊臣秀吉の臣長谷川藤五郎秀一に東郷の地が与えられた。現在残る城跡は、城下町東郷ともどもこの時以降に本格的に築城されたものと見ることができる。
 長谷川秀一は、はじめ信長の小姓として後には側近として仕え、本能寺の変の時は、家康の案内のため堺におり、異変を知ると家康一行とともに有名な「伊賀越え」にて三河岡崎まで逃げ延びている。
 信長没後は秀吉に仕え、小牧長久手の戦い、九州攻めなどに参加し、天正十二年五月越前東郷十一万石の槇山城主となり、翌年四万石を加増されている。羽柴の姓も賜り東郷の地と官名をとって羽柴東郷侍従とも呼ばれた。
 

▼本丸(城台)跡 ▼千畳敷と今も残る土塁

 その秀一も文禄の役に従軍し、文禄三年一月二九日朝鮮の地で病没した。
 その後、北ノ庄城の丹羽長秀の第二子長昌が槙山城主となり五万石を領したが、関ケ原の役で西軍に属したため領地は没収され、慶長六年(一六〇一)結城秀康の越前入国とともに廃城となった。

▼本丸下の石垣と横を通る自動車登山道 ▼往時の登城口


 本来の登城口(大手口)は、北側の三社神社からの路で、ここから登ると東側に朝倉氏時代の遺構と思われる郭群が残っている。
 現在は丘陵の西側から城台(本丸)の下まで自動車道が整備され、車で簡単に行く事ができ、二の丸跡が駐車場となっている。本丸(城台)跡と駐車場の二の丸跡では二十mの標高差があり、かなり急な階段となっているが、城台(頂上)に行くと東西二五m南北四五mの平坦地となっており、長谷川秀一の顕彰碑が建っている。また二の丸の南には千畳敷と呼ばれる東西六十m南北四五mの平坦地で武者隠しと呼ばれる土塁がある。

 残っている巨大な堀切跡や本丸石垣跡、また自動車登山道整備時に発掘された瓦などから、相応の天守閣を備えていたと想定される。

 

地図はここです
分館・戦国大名越前朝倉氏に「越前東郷(朝倉氏庶流東郷氏ゆかりの地)」を掲載しています


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