■■■ 越前・若狭(福井県内)の中・近世城跡の紹介■■■

巣城跡(たかすじょう 福井県福井市高須町)
越前南朝軍、最後の戦いの拠点
 

 福井市の川西地区から高須川沿いに登った山が、 風光明媚で知られる高須山(四三八m)で、ここには南北朝時代に新田義貞の部下である畑時能が居城した城跡が残っている。

 建武五年(一三三八年)の新田義貞と、越前守護斯波高経の足羽七城をめぐる戦いは、「太平記」でも有名だが、新田義貞は閏七月、味方の援護に出撃したところを高経配下の部隊 と戦闘となり最期を遂げる。このあと新田軍は後退を余儀なくされるが、翌暦応二年(一三三九年)、義貞の弟脇屋義助は体勢を建て直し、一旦は守護斯波高経軍を越前から加賀へ追い払うのに成功する。

 しかし、風は南朝に吹くことはなかった。翌年八月、京と能登守護吉見頼隆から援軍を得た守護斯波高経は、 三国、金津と北陸道を南下しながら、南朝軍を攻め、一旦は奪われた足羽七城も、大軍で包囲しながら着実に奪い返し、必死に防戦にあたる脇屋軍は後退につぐ後退を余儀なくされている。

 翌暦応四年、守護高経軍は、杣山や大滝を落とし、脇屋義助が篭る府中を攻め、義助は美濃に没落した。

 そして、南朝軍最後の戦いがこの高須山(鷹巣城)で展開することになる。

 「太平記」は、「越前・若狭国ノ間ニ、宮方ノ城、一所モ無カリケル」という状況のなかで、畑時能が籠もる鷹巣城では、何重にも城を囲んだ大軍を相手に必死に抵抗する畑軍の様子を語っている。
 例によってオーバーに、味方が27人で敵が7,000人という不利な戦い状況で、1年2ヶ月たてこもって戦ったとしている。しかし暦応四年の十月、いよいよ最後の時が近づいたことを悟った時能は、わずかな手勢を二分して、自らは伊知地山(勝山市鷲ケ岳)に移動し、大軍に一矢を報いたものの、自身も傷ついて悶死し、時を同じくして、鷹巣城も孤立したまま落城した。

 

 これで越前国内の南朝方は一掃されることになる。脇屋義助は、すでに美濃へ逃亡し、時能らは孤立した戦いを強いられたようだ。戦乱収束により、この後は越前守護斯波高経による新たな支配体制・新秩序が形成されていくことにな る。

 往時は、急峻で難攻不落であったこの山城も、今では林道も整備され、僅か十分程度歩くだけで、頂上の本丸(主郭)に辿りつける。そこは、この手の山城では珍しく、かなり広い平坦地 で二段構成となっており、「贈正四位畑時能戦蹟・鷹巣城」の石碑があり、 周りには空堀跡も残っている。

 そこからは、また、日本海を含め三六〇度のパノラマ風景を目にすることができる。
 そして頂上(主郭)の碑と空堀跡は夏草に覆われながらも、静かに時を刻んでいる。


地図はここです
京福バス鮎川線柳原で下車、高須町まで徒歩約1時間30分、町内白山神社の境内から登山道で頂上まで徒歩40分
または、車で林道を登り、徒歩10分

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Copyright (c) 2002 H.Okuyama. All rights reserved. 撮影2002年7月
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