■■■ 越前・若狭(福井県内)の中・近世城跡の紹介■■■

ヶ城(壇之城)跡(だんのじょう 福井県勝山市荒土堀名中清水


 水無山の南麓で、堀名中清水に位置する山城で、朝倉氏家臣嶋田氏の居城跡である。
 この城が一躍有名になるのは、朝倉氏滅亡後の一向一揆で、当主嶋田将監が一揆に組し、ここを拠点にして朝倉氏を裏切った平泉寺と朝倉(土橋)景鏡を討ったことによる。

 将監の祖父正保は朝倉氏に仕え軍功により、北袋(現勝山) の地1500貫を宛がわれた。保田殿とも言われ、九頭竜川を挟んで相向かいの保田も支配していたものと考えられる。
 三代目の将監は朝倉五代義景に仕えていたが、天正元年に信長との抗争で主家滅亡の憂き目に会う。一族景鏡の裏切りで朝倉義景は自刃に追い込まれ、子息愛王丸は今庄にて殺害され たのである。
 その信長は、朝倉氏を滅ぼした後、支配を奉行人と朝倉旧臣に委ね越前を去った。このため、越前民衆は一揆を興し、朝倉旧臣を攻撃し、将監も主家を裏切った平泉寺と景鏡を許さず弔い合戦を企て、有力本願寺派の和田本覚寺の娘を娶り、一向一揆に 合力することとなった。

 天正二年、平泉寺と朝倉(土橋)景鏡を討つべく北袋に集結した一向一揆勢力は、大将杉浦玄任並びに和田本覚寺ともども嶋田将監の壇ヶ城 (壇之城)に着陣した。
 しかし、同年二月二八日の初戦ともいうべき平泉寺との戦いは一揆方が敗れた。
 両軍は村岡町滝波付近で膠着状態になったが、四月に入ると将監と一揆勢は戦いを有利にすすめるために、もう一つの居城保田城と、見張りの三室山城のほかに、平泉寺にも近い村岡山に砦を築いて平泉寺勢と対抗 。平泉寺勢は、朝倉(土橋)景鏡を大将として村岡山を攻撃したが、その隙をついて、一揆側は、逆に手薄となった平泉寺に攻め込み、平泉寺に引き返した景鏡もろともこれを滅ぼした。
 

 城跡は堀名中清水の日吉神社から登り、500mほどのところにあり20分で到着する。40坪余の主郭が二段残っており、礎石や主郭の石垣も残存している。堀切も残っており、主郭に到達するまえに、城が使う井戸も遺構はないが跡地は一部平坦になって残っている。付近には主郭よりも大きい郭の跡がある。
 主郭の位置からは見晴らしも悪くない。また後ろは山で守られる要害の地となっている。

 しかし、天正三年、信長が再度越前に侵攻すると、一揆方は総崩れとなり、壇ヶ城も柴田勝家や金森長近の軍勢に攻められ、九月五日落城した。
 その後も将監は、一揆を率いて抵抗を続けるものの、柴田氏に押さえ込まれ、最後は石山本願寺に赴いたとされるが、子の正良は、この地にとどまり森川に道場を開いた。

 江戸時代には、この地は掘名銀山として幕府直轄の銀山で、採取された砂銀は高山に送って精錬され た。幕末に橘曙覧がここを訪れたことでも有名である。
 

地図はここです
 

TOPへ戻る一覧に戻る


Copyright (c) 2002 H.Okuyama. All rights reserved.
撮影2002年8月

本ページへの直接リンクはご遠慮下さい。必ずTOPページか新越前若狭城跡考一覧へリンクして下さい。.
 

 

SEO [PR] お金 ギフト  冷え対策 特産品 動画無料レンタルサーバー SEO