■■■ 越前・若狭(福井県内)の中・近世城跡の紹介■■■

田城(西光寺城)跡(ほたじょう 福井県勝山市鹿谷町西光寺)
一揆の大将島田将監父祖伝来の居城


 島田氏は楠正成の子孫の伝承を有するが、保田との関係は「鹿之谷反保嶋田」 に居住した嶋田正保(島田将監の祖父)からしかわからない。「保田殿」と呼ばれていたが、その保田殿の居城が保田城 (別名西光寺城)である。
 鹿谷町保田の後背の山城で、経ヶ岳の北東山麓、地籍では鹿谷町西光寺との境にあたる。

 保田城は、このほか朝倉景経が築き朝倉景鏡の城との伝承もあるが、景鏡がこの城に拠った記録はなく、立地からみてこの地域を治めた「保田殿」の居城と考えて間違いない。 
 嶋田治郎左正保は文亀・永正の加越能三州合戦で記録に見え、この戦功であらたに大野郡北袋(現在の勝山)の地一千五百貫を宛がわれたという。

 三代目の将監は戦国朝倉氏の五代にあたる義景に仕えていたが、天正元年に信長との抗争で主家滅亡の憂き目に会う。主人朝倉義景は刀根坂の戦いで大敗北した後、一旦は一乗谷に帰陣したものの、一族朝倉(土橋)景鏡の裏切りで大野で自刃に追い込まれ、子息愛王丸は今庄にて殺害されたのである。
 その信長は、朝倉氏を滅ぼした後、支配を奉行人と朝倉旧臣に委ね越前を去った。このため、越前民衆は一揆を興し、朝倉旧臣を攻撃し、嶋田将監も主家を裏切った平泉寺と景鏡を許さず弔い合戦を企て、有力本願寺派の和田本覚寺の娘を娶り、一向一揆に合力することとなるのである。

 このため、保田城の川向にあらたに壇ヶ城(壇之城)を、保田城の北で平泉寺の川向に見張り城として三室山城を築く。
 天正二年四月に入ると将監と一揆勢は戦いを有利にすすめるために、平泉寺に近い村岡山にさらに新たな砦を築きはじめると、平泉寺勢は、朝倉(土橋)景鏡を大将として村岡山を攻撃した。しかし、一揆側は、逆に手薄となった平泉寺に攻め込み火を放ち、あわてて平泉寺に引き返した景鏡もろともこれを滅ぼした。

 保田城跡は地元でも城山と呼ばれており、字名に今も「奧ノ城」などが残っている。

▼登山口 ▼主郭跡

 登山口は鹿谷町西光寺の白山神社のの大きな看板のところにある。この看板は、えちぜん鉄道(旧京福線)発坂駅から車で真っ直ぐ南下すると、西側山裾に遠くからも見え 、間違えることはない。

 登山口から真っ直ぐ登ると尾根に到達し、看板に従って右折しそのまま尾根伝いに行けば主郭に到達する。登り口から主郭まで約20分程度である。
 主郭の東側、北側には竪堀が西には大きな堀切が今でも明瞭に残っている。

 

地図はここです
 

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撮影2003年10月

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