■■■ 越前・若狭(福井県内)の中・近世城跡の紹介■■■

山城跡(かつやまじょう 福井県勝山市元町1)


 勝山城を最初にこの地に築いたのは柴田勝安である。
 天正3年8月、織田信長は越前に2度目の進攻をし、一向一揆を制圧し、柴田勝家を越前北ノ庄の城主に定めた。
 ここから、柴田勝家による越前支配が始まる。勝家は一族の柴田義宣を北袋(勝山)に派遣した。義宣は、一揆が築いた村岡山砦に築城し拠点としたが、この地域は平泉寺を滅亡に追いやったほどの一揆勢力の強いところであり、天正5年11月、義宣は野津又城や谷城にこもり抵抗を続ける一揆軍と戦闘し、谷城に攻め上ったところを撃たれ戦死した。

 義宣戦死後、勝家は養子(甥、佐久間盛政弟)の勝安を義宣の養子とし、北袋(勝山)に送った。勝安も最初は村岡 山城に拠ったが、一向一揆制圧後、九頭竜川右岸で七里壁と呼ばれる段丘の上に新城を築城した。これが勝山城である。

 勝山という名前は、一揆勢が、平泉寺との合戦の勝利を記念して村岡山を「かち山(勝山)」と呼んでいた ことが由来であるが、村人の慰撫の意味合もあってか、これをそのまま採用したのである。

 その勝安の治世も長くは続かなかった。信長が本能寺に倒れると、勝家と秀吉とが後継を争い、天正11年4月の賤ケ岳の合戦に勝安も参陣し、21日秀吉の七本槍と激戦となり奮戦するも、脇坂陣内によって討ち死にした。27歳であった。

 関ヶ原の戦いの後、越前は家康次男の結城秀康の支配となり、その後、寛永元年に秀康の5男松平直基が、寛永12年には同じく6男松平直良が入封するも、正保元年には移封、勝山は廃藩、天領となり、城は荒廃した。

 

 美濃高須22,000石の小笠原貞信が勝山に入封するのは、元禄4年閏8月18日のことである。勝山にはその時、貞信主従が住む城も館も無かったという。しかし勝安から1世紀を経る間に袋田村は発展し袋田町、郡町、後町として城主無き城下町を形成していたという。
 城主の格式であった小笠原家は宝永6年に幕府に江戸の軍学者山鹿藤介「勝山城再建絵図」を提出陳情し、古城再建の名目で築城 の許可を得 、宝永6年普請に取りかかった。しかし、堀、土居を整備し、本丸がほぼ完成したところで財政難で中止。
 その後も断続して二の丸、三の丸と整備がすすめられたが、おおよその完成をみたのは築城から120年後であった。それでも天守台はあっても天守閣は築造されず未完となった。

  廃藩置県により、ここに勝山県庁が置かれたが、翌5年には払い下げとなり、堀・土居などは取り壊され、建造物も売却、天主台だけが残され、招魂社が祭られ、城址公園として親しまれてきた 。現在の勝山市民会館(市役所隣)がその勝山城本丸・天守台の跡である。
 市民に永らく親しまれた天守台を取り壊し、昭和42年7月、建造されたのである。

 明治になり、三の丸に製糸場が建てられ てから、城郭の破却はすすんでいたが、昭和42年をもって完全に消滅したのである。
 今、市民会館横に「勝山城址之碑」が在り、前の道路はかつての堀の跡であるが、それに気づく人は多くはない。
 

地図はここです
勝山城を掘る・南馬だし発掘現場(PhotoAlbum)
 

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撮影2002年6月

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