■■■ 越前・若狭(福井県内)の中・近世城跡の紹介■■■

岡山城跡(むろこやまじょう 福井県勝山市村岡町郡・寺尾)
勝山の地名の起こり
 

 勝山市役所から北北東の方向にある小高い山が御立山ともよばれる村岡山(標高 301m、周囲約2K)で、村岡山城跡である。村岡小学校の裏手で横倉鉱泉前の村岡神社入口の大門から頂上への登り口がある。約20分ほどで山頂に着くことができる。
 頂上付近は主郭(本丸)跡、二の丸跡や空堀、堀切があり、 一向一揆が一時的に築いた山城のイメージはない。その後に入部した柴田義宣や勝安時代に居城として整備されたものであろう。特に主郭の東側は畝状空堀群で防御態勢を強化している。
 主郭からは勝山市街地や九頭竜川から大野方面や越前平野も遠望できる。

 この山と城が有名になったのは一向一揆と平泉寺との攻防による。

 天正2(1574)年2月、信長の朝倉攻めから1年後、一向宗の和田本覚寺などに率いられた越前一向一揆が蜂起し、朝倉氏の有力一族でありながら、最後に義景を裏切り、自刃に追い込んだ朝倉(土橋)景鏡が、家族と近臣を引き連れ逃げ込んだ平泉寺を攻撃した。
 初戦は平泉寺が撃退したものの、やがて両軍は村岡町滝波付近で膠着状態になったが、4月に入ると一揆勢は戦いを有利にすすめるために、村岡山に砦を築いて平泉寺勢と対抗しようとした。平泉寺勢は、村岡山に砦を築かれるのはいかにも不利と、土橋(朝倉)景鏡を大将として村岡山を攻撃した。しかし、一揆側は、逆に 暮見山がら三頭山を越えて手薄となった平泉寺に攻め込んだ。こ の時、平泉寺にはわずかな僧と稚児、従者しかおらず、空き屋同然だったため、 北谷の明王院をはじめ放火され、その火が講堂や坊舎に燃え移った。これを知った村岡山近くに布陣していた多くの平泉寺勢は急いで平泉寺へ退去しようとしたが、逆に追い討ちをかけられ敗退、結果全山が焼失し 平泉寺は滅亡した(ここから勝った山、かちやまとして勝山の地名が起こった)。

一向一揆の平泉寺攻撃は
信長、越前を支配す!(下)織田軍と越前民衆との戦い
を参照。


 しかし、翌年には越前の一向一揆は織田軍に平定され、越前の統治をまかされた柴田勝家は、一族の柴田義宣に勝山地方を支配させ、義宣は村岡山城を拠点とした。
 その義宣は一向一揆の残党のたてこもる谷城(勝山市北谷町谷)や野津又城(現野向町北野津又)を攻撃したが敗れ戦死し、そのあとは勝家養子柴田勝安(佐久間盛政弟)がここに城を構えた。
 しかし勝安は1580(天正8)年、袋田村に新しく勝山城(現市民会館の場所)を築城し、村岡山城を廃城とした。


地図はここです
村岡山散策(PhotoAlbum)はここです

TOPへ戻る一覧に戻る


Copyright (c) 2002 H.Okuyama. All rights reserved. 撮影2002年6月
(2009一部更新)
本ページへの直接リンクはご遠慮下さい。必ずTOPページか新越前若狭城跡考一覧へリンクして下さい。.
 

 

SEO [PR] お金 ギフト  冷え対策 特産品 動画無料レンタルサーバー SEO