■■■ 越前・若狭(福井県内)の中・近世城跡の紹介■■■

津又城跡(のつまたじょう 福井県勝山市野向町北野津又、深谷)

越前一向一揆最後の抵抗地

 野津又城の名の由来である北野津又は勝山盆地の北野向町にあり、さらに野津又川沿いに北上すると大日峠で加賀に接 する。なお、野津又城がある高尾岳の地籍は北野津又の隣になる野向町深谷である。

 天正3年8月、織田信長は越前に2度目の侵攻に踏み切り、 木の芽峠から府中に布陣した一向一揆軍を撃破、越前制圧を成し遂げた。9月、信長は柴田勝家を越前北ノ庄の城主に定め、ここから柴田勝家による越前支配が始まる。
 その勝家は、依然として一向一揆の影響が残る北袋(勝山)の統治を、一族の柴田義宣に委ねる。
 
 しかし、この地は、文明三年(一四七二)に本願寺蓮如が越前に下向したさい、道場を設置し布教にあたったとされ、また、繁栄を極めた平泉寺を滅亡に追いやったほど一揆勢力の影響が強いところであった。その時の屋敷跡は現在の北野津又の白山神社とされ、蓮如旧跡として伝承されている。
 
▼蓮如旧跡 ▼現在の野津又道場


  また「百姓の持ちたる国」加賀と接していることもあり、柴田時代に入っても一向一揆はこの地で最後の抵抗を続けていた。天正4年には、一揆勢力は新たに野津又城と谷城を築き、野津又城には北袋の一揆の大将で、拠点壇ヶ城を落とされた島田将監が、谷城には平泉寺攻撃で名を馳せた七山家の大将西脇惣左衛門が立てこもった 。

 天正5年11月、柴田義宣は野津又城や谷城に篭り抵抗を続ける一揆軍の掃討に乗り出すが、激戦のなか逆に討死にする。
 義宣戦死後は、勝家は養子(甥、佐久間盛政弟)の勝安を義宣の養子とし、北袋(勝山)に送り、柴田軍あげての討伐戦の末、天正6年ついに谷城を落とす。
 天正7年6月、柴田勝家が加賀一揆の鎮圧のために加賀に進攻した際には、勝安もこれに従軍し、繰り返し加賀攻撃を行っているから、谷城落城後ほどなく野津又城も陥落したものと思われる。柴田勢は別に佐久間盛政を加賀に派遣し、「百姓の持ちたる国」を攻撃しており、この頃には加賀の支援も得られず、孤独な戦いを強いられていたのであろう。
 
 野津又城は、深谷の梅本神社後背の高尾岳に築かれており、神社の横から登る。登山道は地元の人によってよく整備されており、案内板も親切である。但し、ここが越前一向一揆の最後の抵抗地である山城の跡である旨は一切書かれていない。
 麓には後世のものと思われる石積みや段丘が残っているが、途中の段丘などではあまり城跡を感じさせるものはないが、一部には石積跡と思えるものがある。頂上の主郭跡には二つの祠があり、広さも西側に大きくひろがり、この手の山城としてはかなりの大きさである。主郭 東側には堀切跡も残っている。標高525mという高さとあいまって、最後に立て篭もる抵抗地としてはうってつけであったと思われる。
 

▼かなりの広さの主郭 ▼途中の段丘付近の石積み


 登山は、途中からかなりの急勾配となり、少しキツイ。休憩しながら上ると1時間15分前後で主郭に到着できる。主郭からの眺望はあまり良くないが、登山 道の途中での見晴らしは悪くない。

 なお、一揆の大将島田将監は、落城後には石山本願寺に赴いたとされるが、その本願寺も翌天正8年信長と和議に追い込まれ、石山(大阪)の地を明け渡した。
 

地図はここです
 

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撮影 2002年-2004年6月

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