■■■ 越前・若狭(福井県内)の中・近世城跡の紹介■■■

城跡(たにじょう 福井県勝山市北谷町谷)

 天正3年8月、織田信長は越前に2度目の進攻をし、一向一揆を制圧し、9月には柴田勝家を越前北ノ庄の城主に定めた。ここから、柴田勝家による越前支配が始まるが、勝家は北袋(勝山)の統治を一族の柴田義宣に委ね派遣した。義宣は、 かつて一揆が築いた村岡山砦に築城し拠点としたが、この地域は繁栄を極めた平泉寺を滅亡に追いやったほどの一揆勢力の影響が強いところであった。
 このため、柴田時代に入っても一向一揆はこの地で抵抗を続け、特に加賀一向一揆を背後にひかえた七山家地域の門徒は、谷城(現北谷町谷)や野津又城(現野向町北野津又)に立てこもって、抵抗を続けた。
 「七山家」とは、河合村(出村の北六呂師と中尾を含む)と、木根橋・小原・谷・中野俣・杉山・横倉の七ヶ村をいい、平泉寺との戦いで小原から白山禅定道を通って、平泉寺の背後から焼き討ちをかけ、一揆側大勝利のきっかけを作ったのもこの勢力といわれている。
 そして天正4年には、一揆勢力は野津又城と谷城を築き、野津又城には北袋の一揆の大将で壇ヶ城を落とされた島田将監が、谷城には七山家の大将西脇惣左衛門が立てこもった 。

 天正5年11月、義宣は野津又城や谷城にi篭り抵抗を続ける一揆軍の掃討に乗り出し、激しい戦闘を繰り返したが、11月8日谷城に攻め上ったところを背後から撃たれ戦死した。また一説には、谷城の大将西脇惣左衛門が変装して近づきその首を切ったとも言われる。
 旧国道沿いには、場所は移転しているものの、今でも義宣の墓が残っており、かつての激しい戦いを偲ばせる。

 その谷城跡は、勝山から157号を北上し、途中から旧道に入り少し車を走らせたあたり、取立山の丘陵の端、谷集落に残っている。現在の伊良神社の場所がそれである。周辺を散策すると、城址らしい雰囲気があちこち に感じられる。
 この付近はその地名からも解るとおり、滝波川をはじめ九頭竜川に注ぐ谷川が集まっており、周りは絶壁で、主郭は全く人を寄せ付けない要害の地となって いる。さぞかし義宣も攻略に苦労したのではないかと思われる。

▼主郭周辺(雰囲気) ▼周辺の絶壁
▼主郭から谷底を見る ▼近くには近世の石畳道が残っている

 

 義宣戦死後は、勝家は養子(甥、佐久間盛政弟)の勝安を義宣の養子とし、北袋(勝山)に送 った。勝安もおなじように村岡山城に拠り一揆に対抗し、天正6年春、ついに谷城を落とし一向一揆を制圧する。
 天正7年6月、柴田勝家が加賀一揆の鎮圧のために加賀に進攻した際には、勝安もこれに従軍し、八月谷峠を越えて牛首谷(現石川県白峰村)に兵を進め、これを制圧した。
 その後、勝安は九頭竜川右岸で七里壁と呼ばれる段丘の上に新城を築城した、これが勝山城である。
 勝山城の近くには、勝安が義宣を偲んで建立した義宣寺もある。
 

地図はここです
 

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撮影2003年4月

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