■■■ 越前・若狭(福井県内)の中・近世城跡の紹介■■■

岡城跡 (まるおかじょう 福井県坂井郡丸岡町霞町)
 

 丸岡城は、天正4年(1576年)柴田勝家の養子 (甥)柴田勝豊が築城した平山城で、現存する天守閣の中では日本最古を誇ると言われている 。

 天正3年8月、織田信長は越前一向一揆を制圧するため、越前に2度目の進攻をし、これを制圧、殲滅し、28日豊原寺に陣を構えた。9月2日その豊原寺から、新たな越前支配の拠点として北ノ庄に出向き、自ら縄張りを行い、柴田勝家を越前北ノ庄 の城主に定めた。
 その後、豊原寺に戻り、三千坊といわれた屈指の古刹豊原寺に火を放ち、全てを焼き払い26日帰陣した。

 ここから、柴田勝家による越前支配が始まる。勝家は養子(甥)の柴田勝豊に8万石を給し、勝豊は豊原寺跡に城を構えたが、1年あまりでこれを棄て、平野部の「まるこの岡」(高さ17m)に新たな城を築いた。これが丸岡城である。
 しかし、柴田氏の越前支配は永くは続かなかった。信長が本能寺に倒れると、秀吉との後継争いから、天正11年4月賤ケ岳の合戦となり、21日秀吉軍に破れ柴田勝家は一族ともども北ノ庄城に逃げ込むも、24日落城し、滅亡した。
 その後、安井家清、青山修理亮、今村盛次、本多成重以下四代有馬清純以下八代の居城を経て明治維新を迎え、明治34年に丸岡町所有となった。昭和9年には国宝に指定された。

 天守閣は、昭和23年6月福井大地震で倒壊したが、倒壊部品を保存し、古材を利用し往事のままの姿に修理再建されており、重要文化財に指定されている。

 天守台石垣も修復されているが、加工していない自然石を積んでいく「野面(のづら)積み」は、形も大きさも不揃いだが、なぜか調和がとれて、丸岡城に馴染んでいる。屋根は二重、内部は三層と「ニ層三階建」の建築法である。上層に望楼を設置し、古調に富んだ望楼式天守閣として、また、屋根に笏谷石の瓦を載せるなど見応え十分なのものがある。

 現在は天守閣が残るだけであるが、当時は長さ百間余に及ぶ堀と本丸、二の丸などの各郭があり、本丸御殿、二の丸御殿や大手門、不明門などの数多くの建物からなっていた。

 なお、天守閣登り口東には、鬼作左で有名な本多作左衛門重次が陣中から妻に宛てた「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」を記念した一筆啓上碑が建立されている。

 

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撮影2002年6月

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