■■■ 越前・若狭(福井県内)の中・近世城跡の紹介■■■

崎城跡 (ながさきじょう 福井県丸岡町長崎)
新田義貞ゆかりの城と寺院

 中世坂井郡の要所に在った称念寺と一体となった城・寺院、陣所で、南北朝期には南朝方の拠点の城の一つで あった。その後の中世越前での戦闘でも度々登場する城である。
 坂井平野(足羽郡と坂井郡)の中心に位置し、中・近世の北陸道の東側400mほどに在り、僅かに高台になっているとされるが、現地では実感できるほどではない。

 「太平記」には「細屋右馬助ヲ大将トシテ其勢三千余騎、越前国へ打コへ長崎・河合・川口三箇所二城ヲ構テ漸々ニ府ヘゾ責寄ケル」(巻19・新田義貞落越前府城事)とある。 新田義貞と足利(斯波)高経との南北朝抗争「足羽七城・藤島の戦い」は周知のことなので、ここでは省略し、義貞の最後と長崎城(称念寺)の関係にだけ簡単に触れるにとどめたい。
 建武5年閏7月2日、新田義貞は北軍で越前守護の斯波高経と対陣のさなか、高経の居城黒丸城の向城として築いた燈明寺城から、僅か50騎を率いて藤島城の偵察に出かけたが、途中 、藤島城防衛の応援に黒丸城より出撃した斯波高経配下の部隊300余騎と遭遇戦となり、眉間に矢を受けあっけない最期を遂げる。
 このため高経は時宗の僧8名を派遣し、遺体を収容させ、 長崎城称念寺に送り、葬儀を行っている(首は京に送られ、当時の習いで獄門に付された)。これ以降も、称念寺は越前での時宗普及の拠点道場として、足利氏によって保護が与えられていたと考えられる。 
 現在も称念寺北側には義貞の墓が置かれている。現存する墓は、江戸時代福井藩松平宗矩によって改修されたもので、合わせて石碑も建立されている(徳川氏は新田氏の子孫 を潜称していたため、特別に保護)。

▼称念寺 ▼新田義貞墓

 室町期も、守護斯波氏と朝倉氏との抗争でも記録にでてくる。文明11年閏9月4日守護斯波義良は反朝倉の意思を固め甲斐氏、二宮氏を引き連れ越前下国のため京をで、11月長崎城に拠り、金津の攻防戦を展開した。また、その後の朝倉氏時代にも、一向一揆との抗争で重要な位置を占めた。

▼現在の長崎城跡(称念寺境内) ▼裏手(東側)に残る土塁跡

 城の規模は東西110m、南北140mで、現在も周囲に土塁や濠跡らしい跡を残している。ただ、その後の寺院整備との関係で、どこまでが中世の遺構か判然としないが、裏手(東側)の土塁は長崎城の遺構と思われる。周辺には字名として西門、北門、陣田などが残っている。


地図はここです
 

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撮影2002年〜2003年

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