■■■ 越前・若狭(福井県内)の中・近世城跡の紹介■■■

ヶ城跡 (ひうちがじょう 福井県南条町阿久和)
中世の始まりから終焉までを見届けた城


 北陸道が通る今庄の燧ヶ城は、中世のはじまりからその終焉までを見届けた城である。

 治承3(1179)年11月のクーデターで院政を停止し、権力基盤を万全にしたかに見えた平氏であるが、古代荘園制度の社会的な矛盾が表面化する中で、中央と地方の対立は先鋭化していた。治承4(1180)年以仁王、源頼政らが反平氏の狼煙をあげると北陸地方も動乱に巻き込まれる。

 寿永元(1182)年になるといち早く挙兵した木曽義仲の影響が越前にも及んでくる。このため翌年3月、平氏は総力を挙げ義仲追討軍を編成し、4月に数万の大軍で京都を進発、二手に別れ越前に進攻した。主力軍は敦賀から木ノ芽峠を越え、別軍は栃ノ木峠を越え今庄に迫った。

 これに対し、平泉寺の長吏斉命らに越前・加賀の利仁流藤原氏勢力を加えた反平氏軍は、今庄の西方の藤倉山東端の愛宕山(260m)に燧ヶ城を構えた。この地は四方を山に囲まれ、麓は日野川と鹿蒜川が流れる天然の要塞であった。反平氏方は川を堰き止め追討軍の渡河を防ぐ戦術に出たが、平泉寺の長吏斉命らが平氏に内通したため4月27日落城した。

 平氏の義仲追討軍は、この後北陸道を北上するも越中国砺波山の倶利伽羅峠の戦いで敗北、勝利した義仲軍は各地の武士を糾合し破竹の勢いで京に進軍した。

 その後この城は、南北朝の抗争、一向一揆と織田軍との抗争など室町・戦国期でも使用され、現在残る遺構はこの時期のものと考えられる。

 尾根づたいに三の郭、主郭、二の郭と郭を配し、三の郭の虎口には戦国期のものと考えられる石積みが見られる。
 主郭跡には城址碑が建立されており、見晴らしもよい。主郭とその先の二の郭の間は切り落され土橋で繋いでいる。先端には二重の土塁があって、そこまでが城域と考えられる。
 

▼j城址碑 ▼主郭後
▼二ノ郭後 ▼主郭と二ノ郭をつなぐ土橋
▼所々に時期不明の石積跡がある ▼城址からみた今庄宿現況

 城跡には旧街道沿いの新羅神社・観音堂神社横手から登るが、地元の人によって登山道が整備されており、アクセスは容易である

 

地図はここです
 

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撮影2009年10月

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