■■■ 越前・若狭(福井県内)の中・近世城跡の紹介■■■

山城跡 (そまやまじょう 福井県南条町阿久和)
新田義貞が、守護足利(斯波)高経が、そして甲斐氏が立て篭もった城で中世越前の目撃者
 

 杣山城は現在の南条町の南東に位置し、西側には北流する日野川、北と南は西流して日野川に合流する阿久和川・田倉川に挟まれ、東方の越前山地から西方に突出した杣山(492m)の山頂にある。
 登山口は北麓阿久和方面に居館跡口、二の城戸跡口、花はす温泉「そまやま」裏手口の三ヶ所あり、ハイキングコースとなっている。南麓は急崖をなして宅良谷に臨む天険の要害となっており 、登ることはできない。
 頂上からは、日野川の左岸を走る北陸街道を見渡せ、戦略上の要地でもあった。

 瓜生氏一族は、鎌倉時代以降杣山の地頭職を有し、ここに居館と砦(杣山城)を築いたが、現在残っている城はそのスケールからいって土豪クラスのものではなく、後世に守護斯波氏や守護代甲斐氏によって拡張整備されたものと考えられる。

 建武新政末期、後醍醐天皇は足利尊氏に和睦(降伏)し、比叡山を降り退位に追い込まれるが、この時新田義貞は、再起を期して敦賀の金ヶ崎城に下向した。しかし、越前は足利一門最高の家格を誇る足利(斯波)高経が守護 になっており、これを迎え撃ち、たちまち金ヶ崎を囲んだ。このため新田義貞は瓜生保とその兄弟に援軍を要請するが、瓜生兄弟は、金ヶ崎に救援に向かう途中に足利軍の今川頼貞に迎撃され討死する。
 この後、新田義貞・脇屋義助の兄弟は、糧食の尽きた金ヶ崎城より脱出して杣山城に移り 、南朝軍を糾合・再編し、足利高経の拠点である府中(現武生市)を攻略するも、足羽七城の戦いで戦死、その後紆余曲折はあるものの、南朝軍は一掃され守護足利(斯波)高経の越前支配が貫徹する。

 しかし、足利(斯波)高経が、「将軍と同格」「第一の家格」として足利尊氏没後の足利幕府内で実質上その政治を管領するようになると、諸大名との不和、さらに将軍義詮の疑念を引き起こすに至る。このため、貞治五年(一三六六)八月、高経は将軍義詮に別れの挨拶をした後、京都三条高倉の屋敷を自焼して越前に下り、杣山城に入った(貞治の政変)。直後、将軍義詮は討手を送り、城は幕府軍に包囲されたが、将軍も討伐軍も本気で高経を攻める気は無く、戦闘には至らず、翌年高経は城内で病没した。

 高経の死後、斯波氏は復権し、三管領筆頭として再び幕政にも復帰、在京したままで、杣山城は守護代甲斐氏一族の居城となった。

 そして、応仁の乱の時、あらたに守護代となった朝倉氏と越前きっての実力者甲斐氏が越前の覇権をかけて戦い、文明六年(一四七四)正月八日、朝倉孝景は越前平定作戦として甲斐氏の拠るこの城を攻めて勝利を収め、越前支配を確実なものにしていった。
 その後、朝倉氏時代には、その臣河合安芸守が城番を務めたとされている。

▼外濠跡 ▼西御殿跡
▼本丸跡 ▼堀切跡


 昭和九年三月十五日文部省史跡指定となり、現在も山頂の台地に本丸跡、堀切跡、少し下に西御殿跡、東御殿跡が残る。
 山裾の十年ほど前までは林であった場所に居館跡があり、現在木を切り倒し発掘が進められているが、その大きさから守護級クラスのものと想定され、高経在城時の館跡の可能性もある。

 またこの館と家臣の館群、山城の関係に加えて地形が一乗谷によく似ており、主人斯波氏や守護代甲斐氏の城下整備をモデルにして、朝倉氏が一乗谷を築いたことも想定される。
 

地図はここです
 

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撮影2002年11月

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