■■■ 越前・若狭(福井県内)の中・近世城跡の紹介■■■

野陣屋跡(かずらのじんや 福井県丹生郡朝日町)


 徳川吉宗といえば、御三家の一つ紀伊家の徳川光貞の第四子に生まれながら、兄二人の死で紀伊徳川家を継ぎ、ついには江戸幕府第八代将軍にまで昇った幸運な人物である。その治世は享保の改革と呼ばれ、学問 を奨励し、貨幣を改鋳し、財政面では新田開発、年貢の増収をはかり「幕府中興の主」と称された。

 その吉宗の最初の領地が、越前福井の葛野領(藩)であることはあまり知られていない。

 元禄十年(一六九七)三月、和歌山藩主徳川光貞の子頼方(後の吉宗)が十四歳の時、越前に三万石を拝領して初めて大名に取り立てられたのである。
 領地は、越前の丹生郡下糸生村(現朝日町)以下十三ヶ村、坂井郡針原村(現春江町)以下三二ヶ村より成っていた。三万石は公称で、実際には、かなり下回っていたとも言われている。

 なお、陣屋は現朝日町下糸生(しもいとう)の葛野(かずらの)に置かれたため、近年は葛野藩と呼んでいる。葛野は、JR鯖江駅から約十K離れた丹生郡朝日町下糸生の北東に あり、下糸生の枝村である。

 尤も、頼方(吉宗)は領地へは行かず、和歌山に居住し、代官・役人のみの派遣であった。
 記録によれば、正徳元年七月二日に陣屋が築かれ、八日には代官が到着し、多くの家が建てられ「忽ち小市街を為す。今なお観音町あるいは長屋などの地名残れり」と丹生郡誌に記載されている。

 その陣屋が建立された場所は、現在の葛野神社周辺で、ここを中心に家が軒を並べ、高野北屋舗・同東屋舗・同南屋舗、広小路の地字名のほか、現在でも観音町・長屋などの通称も残っている。
 神社の一角は、段丘のように小高い地形を今も留めており、神社奧は林となっている。陣屋の遺構は必ずしも充分でないが、この小高い部分 とその北側宅地や畑部分とすれば、かなりの大きさの陣屋であったと考えられる。
 なお、~社には色どり鮮やかな吉宗の木像が残されている。

▼葛野神社 ▼道路左が神社、陣屋跡はここから北側一帯


 松平頼方(吉宗)は、三代、四代藩主の二人の兄(もう一人の兄は早世)が宝永二年(1705年)に相次いで亡くなった為、紀伊家(五十五石)を継ぐことになり、これに伴い越前葛野藩は廃藩となった。
 陣屋のあった下糸生は幕府領となり、後に鯖江藩領となった。

 

地図はここです
 

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撮影2003年8月

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