■■■ 越前・若狭(福井県内)の中・近世城跡の紹介■■■

屋城跡(くりやじょう 福井県越前町厨)

  国定公園になっている越前海岸、そのほぼ真中付近に越前町の厨海水浴場がある。この厨浦の背後にあるのが厨城山といわれる栗屋城址で、標高513m、中世の山城のなかでは、県内最高位の一つだ 。
 西は日本海、東は丹生山地から福井平野を望む絶好の要地で、近くには海岸と内陸を結ぶ峠も複数あり、交通面でも重要な場所であった。

 栗屋城がいつ、誰の手によって造られたのかは、はっきりしていない。地元の伝承では、鎌倉時代に越前守護であった島津忠久が次男の忠綱を守護代として送り込み築城した とされるが、麓に居館を構え ることはあっても、築城の必要性があったかどうか不明である。
 しかし、南北朝時代にはこの城は間違いなく存在し、新田義貞率いる南朝軍と守護斯波高経率いる幕府軍が相互に奪いあっていることから、むしろ、この時期の築城と見るほうが妥当であろう。

 この城が有名になるのは、斯波高経の子で、後に名管領と謳われる斯波義将が若き日一時篭城したからである。

 貞治5年8月8日、将軍義詮は当時幕政を押さえていたは斯波高経の追討、義将の執事解任を命じた、いわゆる貞治の政変である。このため、高経・義将親子は三条高倉の京屋敷に火を放ち一族ともども越前に下り、高経は南条郡の杣山城に、義将はここ栗屋城に立てこもることになる。
 直後、幕府の追討軍約7千の軍勢が、杣山城と栗屋城を囲むが、大きな戦にはならず、何とか1年近く城を守りぬく。ただ、斯波氏の被官人であった朝倉氏はこの時、斯波氏から一時離れ追討軍に加わり、栗屋城を海岸側から攻めている。(このため後に斯波氏が復権すると朝倉氏は長い冷遇時代を送ることになる 。)
 しかし、貞治6年7月13日63歳にして高経は杣山に病没、その死は4日後には京につたえられ、その直後8月2日には義将の使者が将軍のもとに参上し、赦免交渉をはじめると、幕府は直ちに赦免を決定し、9月4日には義将は早々と上洛を果たす。この後、義将は名管領、日本史に残る名武将として斯波氏の全盛時代を築いていくことになるのである。


 城跡は、頂上の主郭に現在愛染明王が祀られ、東西両側に大小多くの腰郭をもち、北側には二本の堀切と一本の竪堀がみられる。ただ、戦国末期、織田氏の進攻に備え朝倉氏が、また一向一揆が蜂起したとき、それぞれこの城に手を加えた と考えられており、どこまでがいつの遺構か、明確にすることは難しい。しかし、標高の高さから丹生郡各地からその山容を見ることができ、規模から見ても福井の中世山城の代表の一つである。

 その代表的山城も、現在では広域基幹林道西部2号線が主郭近くをとおり、さらにそこから車で主郭の真下まで乗り入れできる。福井からは車で60分前後で到着する。
 

地図はここです
 

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撮影2002年7月

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