■■■ 越前・若狭(福井県内)の中・近世城跡の紹介■■■

浜城跡 (おばまじょう 福井県小浜市城内1丁目)
川と海を利用した水城
 

 
 慶長五年、関ヶ原の戦で西軍に属した小浜の木下勝俊は除封され、そのあとには近江の大津城主であった京極高次が若狭一国8万5000石を領し、入部した。

 京極高次は近江の小谷の生まれで、浅井氏滅亡後信長に仕えたが、本能寺の変のあと明智光秀に従い秀吉の長浜城を攻めたため 、追求される身となるが、美貌の妹が秀吉の側室となったことで許された。その後の加増もあり、関ヶ原の合戦時には大津城主として6万石を領していた。

 関ヶ原の戦に際しては、東軍に属し大津城に篭城した。西軍に囲まれ、関ヶ原の戦いの前日には開城したが、畿内で東軍として行動したことにより、若狭一国を与えられた。
 妻は浅井長政三姉妹の次女常高院である。翌年には、高次は近江国高島郡のうちにおいて7000石を加増された。

 高次は、かつての若狭守護武田氏の後瀬山城を捨て、居城を海岸沿いの蜘蛛の浜(下竹原)に移し、新たに城下町割りを行った。ついで高次の子忠高は、寛永元年、敦賀郡2万1000石を加増され、領地高は合計11万3500石となったが、寛永十一年閏七月、出雲松江に転封となり、京極氏による若狭支配は2代で終わりをつげた。

 そのあとへは老中の要職にあった酒井忠勝が武蔵川越10万石から入部し、築城を続行し、天守閣も建立し、寛永十五年完成した。その後幕末まで15代230年にわたり酒井氏の支配が続いた。

 城は、小浜湾の海岸沿いで、北川と南川に挟まれた中州に築かれている。二本の川を堀に利用しかつ海に面した水城といえる。
 明治二年二の丸から出火した不審火により焼失し、城郭としては本丸部分が残るだけである。
 本丸の跡は、現在酒井忠勝を祀る小浜神社の境内となっているが、境内の西南部分には、三層の天守閣が建てられていた天守台が現存している。
 


地図はここです
 

TOPへ戻る一覧に戻る


Copyright (c) 2002 H.Okuyama. All rights reserved.
撮影2002年3月

本ページへの直接リンクはご遠慮下さい。必ずTOPページか新越前若狭城跡考一覧へリンクして下さい。.
 

SEO [PR] お金 ギフト  冷え対策 特産品 動画無料レンタルサーバー SEO