■■■ 越前・若狭(福井県内)の中・近世城跡の紹介■■■

橋城跡(どばしじょう 福井県大野市日吉)
 別名:亥山城(居山城) 斯波義敏が最後に篭った城


 JR大野駅から西に向かって六間通りを進むと、まもなく左手に日吉神社が見えてくる。中世の土橋城(亥山城、居山城ともよばれた)の小丘である。大野には戌山( いぬやま、犬山)城があるため、亥山城(いやまじょう)と間違える人もいるため要注意である。

 「太平記」の巻二一によれば、暦応二年(延元四年)七月五日「堀口兵部大輔氏政、五百余騎ニテ居山ノ城ヨリ出テ、十一箇所ノ城ヲ五日ガ中二攻落シテ、降人千余人ヲ引率シ、河合庄へ出合ハル」と記され ている。南朝方であった堀口氏政は、亥山城を拠点にして、足利軍に抵抗しており、新田義貞の死後の翌年、南軍の一斉蜂起に加わり、足利方を追ったことがわかる。
 その氏政も、期待した平泉寺の援助も得られず、翌年には守護足利(斯波)軍に攻撃され、暦応四年畑時能が篭る鷹巣城(現福井市)に逃れ、城は落城した。

 その後斯波氏が、貞治の政変を経て越前守護として安定期に入ると、斯波氏庶流の斯波義種(大野氏)の系列が大野郡司となり、戌山 (いぬやま)城を築き、その家臣二宮氏は土橋城(亥山城)を居城とした。

 応仁の乱が起こると、文明三年(一四七一)西軍から東軍に寝返って越前を平定に乗り出した朝倉孝景は、西軍の越前守護代甲斐氏の拠点を次々と落とし、同七年越前国内で唯一支配力が及んでいなかった大野郡の平定を進め、二宮氏が篭る土橋城(亥山城)の攻撃にとりかかる。
 しかし、ここで予期しなかった事がおきる。ここまで大野に在って、朝倉氏の越前平定を見ていた守護斯波義敏は、朝倉氏の「越前乗っ取り」を懸念しはじめ、反朝倉の態度を固め 、四月十日二宮氏が篭る土橋城に突然入城する。

 一気に攻め落とすことを考えていた朝倉氏は、当代の守護が城内にいることで攻撃することができず、孝景は義敏に繰り返し退城を求め、将軍にも守護義敏の退城周旋を頼むが、結局聞き入れられず、やむを得ず七月二三日に城中の敵勢を誘い出し井野部で合戦し、二宮兄弟ら一五〇人を討取っている。しかし土橋城に篭った義敏は、その後も退城せず、孝景は一一月三日ついに攻撃を開始 。激しい戦いとなったため、やむを得ず義敏は十二月三日城外に避難した。この結果、朝倉氏はようやく、土橋城を落城させることができ、守護義敏を護衛して京へ送り出すとともに、二宮党も国外へ追い落とし、越前一国支配を手中にすることに成功する。

 以後、朝倉氏は大野郡司をここに置き、戦国末期には義景の従兄弟朝倉景鏡が大野郡司とり、天正元年八月の織田信長進攻では、朝倉義景を裏切って信長より郡司職を安堵され、土橋に改姓したが、翌二年二月蜂起した一向一揆に平泉寺で滅ぼされた。


 城跡は、南北朝期から戦国末期まで使用されその後廃城となったが、西側にはかなりの深さで濠跡が残っている。また、小丘であるが、 本丸(主郭)までいくと盆地の平野部のなかではそれなりの高さを感じる。主郭の後方(東側)は、一気に道路面まで降りており急峻である。

 南北朝期の築城(もちろんその後、斯波氏や朝倉氏、さらに神社創建で大幅に改修されているが)とは思えない洗練された城郭の面影をいまも留めている。
 

 

地図はここです
 

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撮影2000年10月

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