■■■ 越前・若狭(福井県内)の中・近世城跡の紹介■■■

野城跡(おおのじょう 福井県大野市城町3)

 天正3年8月、織田信長は越前一向一揆を制圧するため、2度めの越前進攻に踏み切 り、本隊は敦賀から府中へ(武生)、徳川軍は北国街道栃ノ木峠から府中へ攻め入ったが、同じく一揆勢力の強い越前の大野郡(奥越方面)へは、美濃境の油坂峠や温見峠から金森長近と原政茂に攻撃、平定させ、戦後処理では、その功として大野郡の三分の二を金森氏に、三分の一を原氏に与えたといわれている。

 金森長近は、美濃生まれで、祖先は守護土岐氏に仕えたとされるが、土岐氏の美濃を離れ近江に移り、後に尾張織田家に仕官、やがて織田信長に仕え各地を転戦。越前一向一揆の鎮圧の功により大野郡に入った時は52歳になっていた。
 大野は越前と美濃を結ぶ美濃街道が通る交通の要所であり、長近は、斯波氏や朝倉氏以来この地の支配の拠点山城である戌山城(いぬやまじょう)に代えて、新たにふもとで大野盆地を見渡せ、かつ、交通の便や城下形成に有利な亀山に平山城の城郭と、東麓に城下町を造成した。これが大野城である 。
 城下町づくりは、京都を模し、東西六条、南北六条に区画して「北陸の小京都」いわれる碁盤の目のような町を造った。現在の市街地でもそのまま生きている。

 金森長近は天正14年(1586)飛騨高山に転封、その後、織田秀雄、松平直政が城主となった。寛永10年、松平直政が信濃松本に移り松平直基が、正保元年に松平直良が入封するなどめまぐるしく替わったが、天和2年(1692)には江戸幕府初期に大老を務めた土井利勝 の四男土井利房が入城、廃藩まで土井氏が城主を務め、幕末には名君と言われた土井利忠を輩出した。
 


 城は、亀山(標高249m)頂上に本丸を置き、望楼付き二層三階の大 天守と二層二階の小天守・天狗櫓等を構築し、東側山麓に二の丸・三の丸を配し た。防御は2重の堀を構築し、外堀は南に延びて新堀川に繋がり、西は赤根川を利用し、これら川をつないで城を守っていた。石垣は野面積みである。また、大野城の外堀(百間堀)に沿わせて、城郭を囲む武家屋敷を配置し、北側と西側には足軽屋敷 を設けた。

 江戸時代には町の大火により、城も幾度か被害にあったが、安永4年(1775)4月8日の大火では、本丸も含め城郭、町屋の大部分を焼失した。城は寛政7年(1975)に再建されたが、天守閣はついに 再建されず、石垣だけとなってしまった。
 廃藩後、城の建造物は取り壊され、現在の天守閣は昭和43年(1968)土井氏関係子孫の寄付により、往時を推定して再建されたものである。内部には金森氏・土井氏等の遺品が展示されている。

 現在、大野城がそびえる亀山には遊歩道が整備されているが、何れも明治後期以降のものであり、当時の武士は、城への登降には「百間坂」のやや急な坂道 を利用していた。これは現在もそのまま残っている。

地図はここです
大野城を撮る(PhotoAlbum)はここです

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撮影2002年6月

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