■■■ 越前・若狭(福井県内)の中・近世城跡の紹介■■■

峯城跡(みつみねじょう 福井県鯖江市上戸口町)

 三峯という地名は、金谷、西袋、上戸口方面から伸びた尾根が合流していることからこの名がきたと言われている。三峯城はその三峯の南東の城山(標高404.5m)山頂にあり、そこからは、波多野城・二峯城・栗屋城も眺望できる要害の地である。

 建武四年に、それまで足利方に属していた平泉寺は、南朝にも味方することを決め、この地に城を構えて足利軍に備えた。この時、大将が必要ということで杣山城の新田義貞へ使者を出し、結果、弟の脇屋義助が五百余騎の兵で入城した。また、川島の土豪・河嶋惟頼もここに立て篭ったと考えられる。

 建武五年の新田軍と足利(斯波)軍が死闘を展開した足羽七城の戦い(藤島の戦い)時、脇屋義助はこの城を拠点にしており、同年閏七月二日新田義貞が不慮の死を遂げた時、一時パニックに陥った新田軍をここから指揮して、残兵を収容し、体勢を立て直した。その後、脇屋義助は府中(武生)に移り、この城は河嶋に守備させた。

 暦応二年、脇屋義助は南軍の総反抗を指揮し、自らは総大将として府中(武生)を出発、織田・田中その他城を落し、ついに黒丸城を囲み、守護足利(斯波)高経を加賀へ敗走させた
 しかし、新田勢が黒丸城をはじめ足羽七城を支配下に置いた期間は長くはなかった。翌暦応三年、斯波高経らは越前の南朝方を万全の体制で攻撃、次々と城を落とし、八月一七日黒丸城を囲み、二十日の城攻めで奪還し、九月二三日、脇屋義助が最後に立て篭もった平葺の城を焼き払っている。ここに至って義助も手の 打ちようが無く、美濃に逃れている。
同じ頃、三峯城も東の尾根から足利軍の三山重行によって攻撃され、落城している。

 三峯の中腹にはかって三峯村があったが、そこまでは一応車で入って行ける。今は廃村となり、跡地は三峯大いちょう広場となっており 、樹齢数百年といわれる根まわり十二mの大イチョウがある。

 城跡は、主郭が南北方面にならぶ連郭式山城であり、尾根の合わさった頂上に郭1が築かれ、北に延びる尾根上に三つの郭からなる郭2、五つの郭からなる郭3が築かれている。それぞれの郭の間には堀切が築かれており、竪堀や土塁 の跡も残っている。
 郭1には三峯城址・脇屋義助卿守戦之地の顕彰碑が建っている。昭和十五年九月二一日唆工で、石碑の高さは約3.5m、幅も約1m、重量約2.5t、どうやって運んだのか悩んでしまいそうである。
 この他、櫓台、竪堀、土橋、虎口など遺構が良く残っており、南北朝時代の山城の特長をとどめた貴重な遺跡である。
 

地図はここです
三峯城・縄張りと各遺構(PhotoAlbum)は後日掲載

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撮影1998年8月、2002年8月

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