■■■ 越前・若狭(福井県内)の中・近世城跡の紹介■■■

江陣屋跡(さばえじんや 福井県鯖江市屋形町)

 初代の鯖江藩主となったのは、間部詮言である。間部家の祖は詮房であり、甲府宰相徳川綱豊(後の六代将軍家宣) に仕え、宝永7年には上州高崎5万石の城主になるなど、異例の昇進を遂げた人物である。しかし吉宗が8代将軍になると、詮房は老中職を解かれ、越後村上5万石へ移され る。死後弟詮言が家督を相続するが、直後の享保5年9月12日鯖江5万石への移封が命じられた。

 詮言が入部した時の鯖江は、小屋掛けのようなものが17軒、通りの向かい側は小浜藩領で、寺(誠照寺)領・福井藩領・小浜藩領が入り組み、陣屋や侍屋敷を建てるべき場所はなかった。鯖江村全体でも27軒、人口は200人余りと惨憺たる状況で、移ってきた150名の家臣たちは、二里も三里も離れた地区の農家を借りなければならなかったといわれている。明らかな左遷である。このため、今立郡に在った鯖江藩領と小浜藩の東鯖江村を幕府の許可を得て交換取得し、ようやくまとまった地域を支配下に置くことが できた。

 5万石での移封とはいえ実質減収で、このため陣屋は当初は幕府代官所跡をそのまま使用していたが、享保13年、2代藩主詮方が初めて入部するというので、北陸道の西側代官跡地を急遽拡張整備した。現在の屋形町といわれている一角がそれである。旧国道8号(江戸時代の北陸道)の本町通りから西側部分に相当する場所である。

 侍屋敷は陣屋や誠照寺と反対の東側、それに北部の西山の麓におかれた。北陸道の整備も並行してすすめられ、南北の出入口には鍵形に屈曲させた喰違土居が設けられて いた。

 なお 鯖江藩の念願であった鯖江城の建設は、7代藩主詮勝が老中になった天保11年に許可され、幕府からは築城資金として5千両が下賜され、軍学者であった小浜藩士宮田景厚を招いて長泉寺山の山項に天守を、西山一帯を城郭とした縄張図も作成し、資材の事前調査にも着手したが、天保の大飢饉や藩の財政難もあってか、実現されることなく終わった。

 

 維新後の廃藩置県で、陣屋は取り壊され戻地とされ、今では陣屋裏門の付近(御殿通りと北陸道の交差点)に陣屋跡を示す小パークと案内板(写真参照)、御殿通りなどの名前が残るのみで、遺構は何一つ残っていない。
(間部氏の菩提寺である萬慶寺の裏門を、陣屋の裏門とする見解が散見されるが、これは陣屋とは北陸道を挟んで反対側の武家屋敷地にあった御用屋敷の門を移築したもので、陣屋とは無関係)。
 因みに陣屋の表門はJR鯖江駅前から西に伸びる通りと北陸道が交差する場所にあった。

 また、「屋形稲荷」として、陣屋跡に神社と碑が建っている(最初の写真参照)が、この稲荷は間部氏の陣屋拡張整備前の天領時代から在ったもので、 陣屋整備後も敷地内に置かれていた。廃藩後、氏子管理に移されたが、大正13年、跡地に鯖江町役場が建立されることになり、一旦松阜神社に合祀されたが、昭和37年、鯖江市の新庁舎が西山に完成し、旧庁舎を取壊し跡地を整備し、稲荷は元の位置に戻り、「屋形稲荷」として再建されたものである。

 

地図はここです
 

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撮影2002年7月

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