■■■ 越前・若狭(福井県内)の中・近世城跡の紹介■■■

江陣屋跡(よしえじんや 福井県鯖江市吉江町)

 正保二(一八四五)年、福井藩主忠昌死去により嫡子光通が福井藩を継承し、弟昌親は二万五千石を内分知された。これが吉江藩である。吉江藩主となった松平昌親は、寛永十七(一八四〇) 年に忠昌の三男として福井城下で誕生し、幼名を福栓という。慶安四年に元服し、従五位下・兵部大輔に叙任され、名を昌親と改めた。

 吉江藩領は、越前各地に散在したが、日野川流域にあたる丹生郡と足羽郡の各村々が多かった。幕府の許可を得て居館の地「吉江」が確定したのは慶安元(一 八四八)年のことである。
 藩政の中心となる城下町吉江は、丹生郡と足羽郡の境で、本藩の城下町福井にも近接し、北陸道と日野川の中間に位置する交通上の要地にあらたに設置された。
 「吉江」の命名については諸説があるが、その昔、あたりは水はけが悪く葦が生い茂っていたところから付けられたとする説が合理的であろう。

 慶安元(一六四八)年十一月、幕府の許可を得て陣屋(藩主居館)の普請に着手、藩主昌親が吉江に初入部したのは一六歳の明暦元(一八五五)年六月十日のことで、この時までに完成している。陣屋町吉江も牛屋村を中心に、近隣の村の一部を接収することによって造成された。
 「吉江町図」によると藩主の館は地籍では牛屋村字東割に当たり、その規模は東西百m・南北百二十mであった。その周辺に家中屋敷がおかれ、下級武士は、陣屋(館)の東端に御徒町、西に足軽の組町がおかれていた。
 現在の自衛隊鯖江駐屯地の南側から、朝水川の堤防と一部河川敷までが陣屋(館)跡で、堤防から駐屯地正門に向かう道路から数m西側が陣屋の西端、吉江公民館からもう少し西側付近が陣屋の東端と考えれば大体陣屋の総敷地となる。

▼藩陣屋(館)跡碑 ▼現在も旧城下町街道の面影を残している

 また、陣屋に通じるため、東方の北陸道から分岐して吉江に通ずる新道が作られ(後の四ヶ浦街道)、西に向けて鍵型に屈曲しながら日野川まで通じ、道に沿って町屋が作られた。陣屋は今では跡形も無いが、新道と吉江の町屋は今でもその雰囲気を残している(この新道は一部を除いて完全に道筋として残っている)。
 陣屋(館)から町方の中心に通じる大手先には制札場が設けられていた。


*七曲がりと記されている場所が、上の写真右側の位置

 延宝二(一六七四)年五月、光通が急死したために将軍の命令で異母弟である吉江藩主の昌親が福井藩主に就任し、吉江藩は僅か二十年で廃藩となり、家中屋敷などは福井城下に移転し、町屋のみが残ることとなった。
 さらに、大正年間に浅水川改修工事で、館跡と町屋の間に新川が造られたため、近辺の景観は著しく変容し、往時の景観をとどめていない。

 昌親(後に吉品)没後、地元では館の跡に霊宮を建立していたが、昭和十五年、福井市宝永の天満神社を勧請し、吉江公民館と川を挟んで相向かいの地に吉江神社を建立した。

 平成に入って浅水川の拡幅整備がなされたことに伴い、史蹟関係も整備され、また吉江神社も南に少し移動して改築されている。

吉江藩大手門遺構はこちら
地図はここです

 

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撮影:2008(更新)
絵図は地元の立待公民館で配布している資料からの引用

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