■■■ 越前・若狭(福井県内)の中・近世城跡の紹介■■■

衛山城跡(ぶえいやまじょう 越前市余川町)

 越前市の東部、万葉の里で知られる味真野に「武衛」の名を残す山城跡がある。

南北朝期、斯波氏(足利尾張家)は、足利将軍家と同様名字不記載の「第一の家格」を誇り、後には三管領(斯波・細川・畠山)筆頭として幕府に重きをなした。斯波義将以降当主が左兵衛督になったこともあり、当主のことを兵衛府の唐名をとって「武衛」(ぶえい)と呼んでいた。越前、尾張、遠江三ヵ国の守護を代々務めた。

武衛山城は武衛ゆかりの犬山城、栗屋城、杣山城ほど著名ではないが、麓に残る鞍谷館(御所)、霊泉寺ともども戦国期の越前における斯波氏の動向をみるうえに欠かせない史跡である。 

応仁の乱当時、守護斯波義敏が東軍に属したのに対して、斯波氏の守護代・重臣である甲斐氏や朝倉氏、織田氏は渋川流義廉を推戴して西軍に属し、激しく対立した。伝承によれば、この時越前に下向した守護義敏が築いた城とされている。伝承通りとすれば、府中(武生)守護所や杣山を拠点にする守護代甲斐氏を牽制、攻撃するために築いたと考えられるがはっきりしない。

城跡へは、越前の里味真野苑から案内に従って展望台まで行き、そこから山へ登ることになる。麓から主郭まで全長約2Kの道程である。味真野苑から数分で途中の展望台に到着でき、そこでは味真野の町を一望できる。

展望台から山に入るが、少し進むと分岐点にでる。ここで右折すると「二の砦」「一の砦」跡に出る。僅かの距離であり、主郭に向かう前に立ち寄っても負担にはならない。この道は鞍谷氏の創建にかかる霊泉寺の裏に繋がる道で、城が鞍谷御所や霊泉寺ともども一体化されていたことを推測させる。ただ、分岐点から「一の砦」跡までは整備されているが、そこから霊泉寺の裏までは整備が十分でなく、夏場は特に雑木に覆われ通行は困難と思われるので、「一の砦」跡を見たら引き返すのが賢明である。

▼分岐点 ▼主郭跡
▼三の砦付近 ▼二の砦解説版

分岐点を左折すると「三の砦」そして頂上の「主郭」へと続く。登山道は地元の人によって良く整備されており、途中50m〜100mおきに標示があり迷うことはない。「三の砦」も含め主郭以外の砦跡は狭く、解説版がないとそこが砦跡であることを見落としかねない。

主郭は標高310mに位置し、砦跡に比較するとスペースもあり見間違うことはない。標柱と解説板 も置かれている。

主郭に登る直前に小規模な堀切、さらにその手前に大きな堀切跡が見て取れる。主郭の周りには、かつては石積に用いた石の残骸も散見されたと地元には伝わるが、現在では目の届く所にはない。鉄塔の建設やさらのその撤去工事などで、いつしか失われたのであろう。

麓から主郭までの所要時間は、途中「二の砦」「一の砦」跡への寄り道を含め、大体1時間みればよい。

 朝倉氏時代には、近くに朝倉街道が通るこの地には斯波氏の庶流にあたる鞍谷氏が、武衛山城を後詰めの城として、麓に館(御所)を構えた。鞍谷御所は、今も濠跡や土塁跡が残り、中世の典型的な城館形式の遺構を良好にとどめおり、見応えがある。

隣接して霊泉寺が置かれている。

  もっとも、伝承とは逆に、鞍谷氏がここに御所を構え(移し)、後背の山に防御用の砦(城)を築いたと考えることもできる。

霊泉寺の創建や鞍谷氏(鞍谷御所)の詳細な事績解明は今後の課題である。


地図はここです
 

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Copyright (c) 2009 H.Okuyama. All rights reserved. 撮影2009年5月
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