■■■ 越前・若狭(福井県内)の中・近世城跡の紹介■■■

中城(館)跡(ふちゅうじょう 福井県武生市府中一丁目)

 府中城(館)の築城は前田利家に始まる。
 越前を平定した信長は、柴田勝家に越前八郡を与えて北ノ庄城主とし、佐々成政・不破光治・前田利家の「府中三人衆」を勝家の与力兼目付役とした。この時、前田利家は府中城(武生市府中)を、佐々成政は小丸城(武生市五分市町)を、不破光治は龍門寺城(武生市本町)をそれぞれ居城とし、各々33,000石を領することになったのである。


 利家の府中城は、朝倉氏時代の府中奉行所が前身といわれ、その位置は現在の武生市役所、中央公民館の場所である。JRの武生駅から正面の道を200mほど行った場所である。
 地元の記録「惣社大神宮縁起」によると、この時利家が城域に社地がかかることを恐れて、総社を北西移動させたとあり、朝倉時代の奉行所からかなり地域を拡大したものであったと推定される。

 利家の府中在城期間は、約6年間とみられ、その後何人かの城主を経ているが、慶長5年9月、関ヶ原の戦いは徳川家康の勝利となり、この論功で家康次男の結城秀康が越前一国、石高で68万石の藩主となった。結城秀康は慶長6年7月28日北ノ庄に入部するが、直後に論功行賞を行ない、本多富正を39,000石で府中城主にした。

 本多氏は、前田利家の築城を受け継ぎ整備拡張したと考えられる。城下整備は、まず北陸道を南北に整備し、その東側に府中城と侍屋敷、西側に寺社、街道沿い両側には町屋が並ぶという構造で、北陸道の中央には用水が流れていてさまざまな用途に利用されていた。また用水の両側には松並木が植えられていた。

 城(館)はまた、当時茶屋と呼ばれていたが、絵図でみると、城(館)の西北部から北側および東側にかけて内堀が掘られ、外堀は北側の東半部から西側にあり、完全に囲まれてはいない。
 門は、南と西にあり、南が大手門であった。侍町は、おもに城の周囲と大手門から南に続く道の両側に設けられており、大手門周辺に会所屋敷と並んで敷地の広い武家屋敷地があった。

 明治維新まで本多氏が9代270年間この地を支配したが、現在では、往時の面影はどこにもなく、現地にその遺構は見られず、市役所玄関前に「越府城址」の石碑があるのみである。
(府中城の城門が総社近くの正覚寺山門として移築現存している)

 

地図はここです (JR駅前徒歩二分の市役所の場所)
 

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Copyright (c) 2002 H.Okuyama. All rights reserved. 撮影1999年〜2002年6月
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