■■■ 越前・若狭(福井県内)の中・近世城跡の紹介■■■

保陣屋跡(ほんぽじんや 福井県武生市本保町18)

 江戸時代、丹生郡本保村(現武生市本保町)には幕府の「本保陣屋」が置かれていた。越前国内にあった天領(直轄地)を統治するためである。
 本保陣屋が設置されたのは、享保6年(1721)のことであるが、それ以前は勝山と西鯖江に置かれていた。しかし 、元禄4年美濃高須の小笠原氏が勝山に入封し、享保5年には越後村上の間部氏が鯖江へ入って鯖江藩ができたことにより、陣屋が移されてきたのであった。
 もっとも、元文元年に福井藩領に繰り入れられたために、陣屋は一旦廃止されが、再度幕府領となった延享元年(1744)に再び本保村の西南部で愛宕山の東山麓に陣屋が設置された。

 本保地区所有文書の中に「御陣屋普請諸入用勘定目録(延享二年十二月)」と題された記録が残っている。それによると座敷や広間、玄関、台所などの多くの部屋からなる本陣御用場、住居用の建物と考えられる北長屋と西長屋、それに門長屋、土蔵が主なもので井戸も2 ヶ所設置されていることがわかる。
 

 

 陣屋の外郭の詳細はわからないが、東西に105m南北に150mで、外側に幅4尺深さ5尺の堀が巡らされ、塀で囲まれていた。
 開設時は幕府代官が常駐していたと考えられるが、本保陣屋が飛騨郡代の支配下に組み込れられた明和2年(1765)以降は、数名の手代が常駐していただけで、代官はその都度、高山から出張してきていた。

 代官で有名なのは「天保の飢饉」時の大井永昌(帯刀)である。天保7年9月検見のために越前に入った永昌は、飢饉の惨状をみて、翌年6月まで本保陣屋に留まり、飛騨から救米を移送し、また自腹で貧民の救済にあたったという。
 なお、その徳をたたえて天保8年に建てられた「天保救荒碑」(てんぽきゅうこうひ)は今でも残っており、毎年遺徳祭が実施れている。
 

 維新後の明治3年(1870)12月、廃藩置県に先立ち本県初の「県」となる本保県(権知事小原鉄心、大参事熊谷直光)が設置され、陣屋の位置に県庁が置かれ、一部敷地を拡張したり建物を新設して、庁舎が整備された。
 しかし本保県は翌4年11月に廃止、福井県に吸収され、わずか1年ほど存在しただけに終った。県庁の建物は地元の希望者に売却され、明治6年までの間にすべて取り払われ、陣屋は幕を閉じ、畑地に還った。
 なおこの時売却された遺構は各地に今も残っている。


 

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撮影2000年〜2002年6月

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