■■■ 越前・若狭(福井県内)の中・近世城跡の紹介■■■

丸城跡(こまるじょう 福井県武生市五分市町)

 天正三年八月、越前に再侵攻し一向一揆を平定した織田信長は、九月柴田勝家に越前を与えて北の庄城に配し、与力として佐々成政・不破光治・前田利家を府中・今立・南条二郡十万石の領主とした。いわゆる「府中三人衆」である。この時前田利家は府中城(武生市府中)を、佐々成政は小丸城(武生市五分市町)を、不破光治は龍門寺城(武生市本町)をそれぞれ居城とし、各々三万三千三百石を領することになった。
 佐々成政は、信長に黒母衣衆として仕た武将で、利家とはライバルと言われた。秀吉とはあまり仲が良くなかったといわれている。
 このため本能寺での信長の死後、秀吉に降った利家に対して戦いを挑むが敗北、それでも諦めず家康との連携を図って真冬のアルプス越えを果たしたことは有名。しかしそれも失敗に終わり、翌年秀吉に降伏。 後、肥後領主となるが、国人たちの反乱の責めを問われて、天正十六年閏五月、摂津尼ヶ崎にて秀吉に切腹を命じられ 自刃した。

 小丸城はその佐々成政が、天正三年の越前府中配置から天正九年の越中移封までの間の約六年間に築いた城であり、成政が去ったあとは廃絶されたが、在城期間が短いため、未完に終わったと の説もある。

 本丸の周囲の堀の一部と本丸に残る石垣、道を挟んでの櫓台が現存している。付近には「小丸」、「北小丸」をはじめ、「古城」、「御館」、「的場」、「鉄砲町」などの城郭関連の小字名が残 っており、城郭施設が広範囲にわたって存在していたと推定される。
 その規模は、五十メートル四方の本丸を中心に、周囲には幅約二十メートルの堀がめぐらされ、外郭施設を含めると東西約三百メートル、南北約四百五十メートルの範囲に及んでいたと推定されて いる。おそらく野々宮廃寺の遺構も利用して、方形の輪郭式縄張りで、二重に堀が巡らされていたのであろう。

 またこの城跡は、昭和七年に北西隅の乾櫓を掘削中に、前田利家が一揆衆を弾圧した様子を記した文字瓦が出土したことでも有名である。それには
 「此書物、後世二御らんしられ、御物かたり可有候、然者五月廿四日いきおこり、其まゝ前田又左衛門尉殿、いき千人はかりいけとりさせられ候也、御せいはいハ、はつつけかまニいられあふられ候哉、如此候、一ふて書とゝめ候」
と書かれていて、現在は味真野「越前の里・郷土資料館」に展示されている。

 目と鼻の先には野々宮廃寺跡、近くは枯山水庭園で国の史跡名勝天然記念物となっている城福寺の他、少し離れるが鞍谷御所(朝倉時代の越前守護、義廉流斯波氏末裔の居館)跡など豊富な史跡がある。
 

地図はここです
 

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Copyright (c) 2002 H.Okuyama. All rights reserved. 撮影2002年6月
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