■■■ 越前・若狭(福井県内)の中・近世城跡の紹介■■■

剛院城跡(こんごういんじょう 福井県武生市深草二丁目)

 金剛院城は府中(武生)城主で豊臣家臣の青木紀伊守一矩(あおきかずのり)の居城跡である。

 柴田勝家時代には与力兼目付役として、佐々成政・不破光治・前田利家がいわゆる「府中三人衆」として、各々三万三千三百石領有していたが、その後、天正 十三年には、木村常陸介(きむらひたちのすけ)が府中領主となり、龍門寺を再興した。
 ついで、青木紀伊守一矩が八万石で大野から府中に入部した。
 
 青木一矩は秀吉の従弟といわれているが定かでははない。また紀伊守の名乗りは一矩のほか秀以、重吉、秀政を称したとされる。初め羽柴秀長に従い賤ケ岳の合戦に参加し、戦後に秀長が姫路城に入ると、但馬出石城主に任命されている。のち越前大野城主となり、府中(武生)に残る禁制などから、遅くとも文禄 四年春までには八万石で越前府中に移った
 小田原征伐にも参加。朝鮮出兵でも肥前名護屋に駐屯した。
 慶長二年七月従五位下侍従に叙任。秀吉の遺命により慶長四年二月、二十万石で越前北ノ庄城主となり、府中城主の期間は僅か二年半にとどまった。
 この間、一矩が府中城に在城することはほとんど無く、実際には甥で猶子の善右衛門がその城代として居城したと考えられる。
 事績としては、陽願寺の寺地の寄進、総社の再建などが伝っている。何れにしても、慶長4年の北ノ庄(現福井市)転封までの短期間であったことに変わりは無い。

 場所は、武生市深草二丁目の曹洞宗金剛院の地である。若干わかりにくいが、本多氏ゆかりの竜泉寺北側にあたる。
 金剛院は、初め安泰寺と号し平出村(現武生市)にあったが、天正元年の織田信長の越前進攻の際に焼亡し、八田村(現宮崎村)に移った。その後、青木氏の帰依によって旧地(平出村)に堂宇を再建したとされる。
 慶長十五年、府中領主となった本多富正によって、青木氏ゆかりの城館跡の現在地に寺基を移し、金剛院と称したとされる。

 城の規模であるが、正徳元年の府中惣絵図によれば、東西六五間、南北七四間の広大な寺域を有する金剛院の四方に、土塁と外堀が描かれ、往昔の城館の規模を伝えている。
 現在も寺本堂の裏側墓地には土塁が残っている。

 慶長五年の関ヶ原の戦いのときは、病に伏していたこともあり、西軍とも東軍とも、どうも旗色がはっきりしないが、関ヶ原の戦い直後の十月十日に没しており、除封となった。
 その子孫は、江戸時代府中で醸造を営み、現在も福井県で紙製品卸業などビジネスを継続している。
 

地図はここです(JRの武生駅からは二十分程度の距離)
 

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Copyright (c) 2002 H.Okuyama. All rights reserved. 撮影1999年〜2002年7
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