■■■ 越前・若狭(福井県内)の中・近世城跡の紹介■■■

谷御所跡(くらたにごしょ 福井県武生市池泉町)
朝倉時代の越前守護家斯波氏庶流鞍谷氏の居館

 文明7年の大野郡攻略で朝倉氏の越前支配は一応の目処がたったというものの、前守護代で名門の甲斐氏の抵抗は強く、とても国内の平定とまではいかなかった。守護斯波氏も反朝倉を固め、甲斐氏、二宮氏ともども越前へ下向し、戦いはいつ果てるともなくつづいた。
 文明13年、傑物朝倉孝景の死で一時窮地に陥った朝倉氏であるが、逆に危機が朝倉氏を強くし、一族あげて反撃に転じ、ついに甲斐氏、二宮氏を加賀に没落させた。

 しかし、守護斯波氏−守護代朝倉氏の構図であるかぎり、斯波氏の圧力から逃れることは困難であることを悟ったのであろうか、孝景の跡を継いだ戦国二代氏景は、斯波武衛家に代わり斯波義廉子息(後の鞍谷義俊)を新守護に推戴した。
 その新守護鞍谷氏は最初一乗谷に居館を置いたが、まもなく、朝倉街道も通り府中にも近い今立郡鞍谷(池泉)に居館を構えた。
 これが鞍谷御所である。

 鞍谷氏は名目的な守護でもあり、後には客臣化していったと考えられるが、それでも最後までその特別な家格は維持し、今立郡を中心に支配していた。その事績は充分に解明されていないが、朝倉氏滅亡後は信長のもとに 奔ったとされる。その後の越前一向一揆で「御所」を攻撃されるものの逃れたが、一揆滅亡後は支配地を信長配下の「府中三人衆」の一人佐々成政に奪われ、これに服した。この時代の文書が鞍谷氏の最後の消息となる。
 

▼南側土塁と濠跡 ▼北側土塁跡


 御所(居館)跡は武衛山西北麓にあり、現在は味真野神社となっているが、当時の遺構を良好にとどめており、中世の典型的な城館形式の居館跡として見応えがある。館跡はほぼ100m四方の方形土塁を残し、南、西、北側が残っているが、東側と北側の一部は破壊されている。南側に残る土塁 は、ほとんど原形を残し、延長130m高さ4.5m幅5mで土塁の外周には堀をめぐらしている。この南側の土塁の内側には20m隔てて平行する土塁が僅かであるが残っている。また東側は完全に破壊され、東側にあったとされる重臣の居館とともども、公園化されている。
 西側もかっては二重の土塁があったとされるが、現在では一重の土塁のみ残り、二重の痕跡を見出すことは難しい

 鞍谷御所は地元では継体天皇の御所跡であるとか、足利義持の弟義嗣が殺害されたときその子の嗣俊が逃れて居住したとの伝承が信じられ、郷土史関係の書籍でも解説されていたが、最近はその主張は消え、鞍谷氏の居館跡であることが明確になってきた。

 背後の山は「武衛山城」とよばれ、この時期の築城にかかる城跡かどうか、築城の目的は何かなど、なお検討すべき問題を残している。西側には鞍谷氏の菩提寺霊泉寺があるが、鞍谷氏の詳細な事績解明は今後の課題である。

 

地図はここです
 

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Copyright (c) 2002 H.Okuyama. All rights reserved. 撮影2000年11
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