■■■ 越前・若狭(福井県内)の中・近世城跡の紹介■■■

門寺城跡(りゅうもんじじょう 福井県武生市本町)

 龍門寺は正安元年(1299)に悦巌崇禅(えつがんすうぜん)の開創と伝えられる。
 中世の寺院と城砦は兼用されることも少なくないが、龍門寺城も府中の中心から少し南寄りの平城として、越前支配の要衝として軍事上何度か登場する。

 天正元年(1573)八月の織田信長による朝倉討伐に際しては、刀根坂の戦いで決定的な敗北を負い、敦賀、府中を経て一乗谷へ敗走する朝倉義景を追って、信長はここに陣を移して軍勢を指揮した。

 信長が越前を去った後、今度は一向一揆が越前を席巻し、信長に対抗するため、一揆側は海岸線と木ノ芽峠を中心に防御体制の整備に乗りだすが、ここ府中龍門寺城には三宅権丞を中心に加賀勢が入り、固めたとされている。

 天正三年(1575)八月十二日、信長は一向一揆討伐のための軍を率いて岐阜城を発し、再び越前に侵攻、敦賀に陣を置いた。十万余の軍勢で攻め込んだ信長は、一向一揆を破り追撃し、 敦賀から再びここ龍門寺に陣を構えた。「今府中の町は死骸ばかりで足の踏み場もない」との有名な京都所司代村井貞勝宛ての信長の手紙はここから書かれたものである。

 越前再平定後、信長は、九月二日に北庄に入り、越前の国割りを行い、柴田勝家に越前八郡を与えて北庄城主とし、勝家の与力兼目付役として、佐々成政・不破光治・前田利家を府中・今立・南条二郡十万石の領主とした。いわゆる「府中三人衆」である。この時前田利家は府中城(武生市府中)を、佐々成政は小丸城(武生市五分市町)を、不破光治は龍門寺城(武生市本町)をそれぞれ居城とし、各々三万三千三百石を領することになった。

 その後、天正十三年(1585)には、木村常陸介(ひたちのすけ)が府中領主となり、龍門寺を再興した。

 現在、龍門寺境内の南側には土塁や堀跡が残されており、武生の中心部でありながら寺を中心に起伏に富んだ地形が残されている(堀跡は墓地に利用されている)

 


地図はここです
 

TOPへ戻る一覧に戻る


Copyright (c) 2002 H.Okuyama. All rights reserved. 撮影2002年6月
本ページへの直接リンクはご遠慮下さい。必ずTOPページか新越前若狭城跡考一覧へリンクして下さい。.
 

 

SEO [PR] お金 ギフト  冷え対策 特産品 動画無料レンタルサーバー SEO