■■■ 越前・若狭(福井県内)の中・近世城跡の紹介■■■

善光寺城跡(しんぜんこうじじょう 福井県武生市京町二丁目)
越前守護足利(斯波)高経の居城

 現在の京町正覚寺域にあたる場所が 、南北朝時代、越前守護足利(斯波)高経の拠った新善光寺城跡である。
 
 建武三年から四年にかけて、南北朝史を彩る「金ヶ崎の戦い」で敗北して杣山城の瓜生館に逃れた新田義貞と弟脇屋義助らは、敗軍の味方三千を糾合し勢力挽回をはかった。

 これに対して守護斯波高経と弟家兼兄弟は北陸道の軍勢六千を越前府中に集め、以前に築いた新善光寺城を さらに拡張し、ここを拠点として新田軍に対した。
 この間、足利方であった平泉寺衆徒は、一部は新田方となり、 三峰に城を築き、杣山城より脇屋義助を迎え入れ府中への攻勢に取りかかった。

 建武五年の二月中旬、雪解けを待って府中攻撃の要害の地を求めて、脇屋義助はわずか百五十騎で鯖江へ出動した。
 これを察知した斯波軍は、府中から細川出羽守が五百騎で鯖江へ押し寄せ、脇屋軍を三方から包囲攻撃し、戦端が開かれるに至った。しかし、脇屋軍は少数であったため、合戦 開始の合図 (狼煙)として在家に火放ち、これを見た新田勢は、各地より、また新田義貞も杣山より鯖江へ馳せ集まった。

 斯波軍も救援のため府中より守護斯波高経・家兼兄弟が三千余騎を率い国分寺の北へ出動し、日野川をはさんで対峠し、互いに浅瀬を探し渡河攻撃しようとした。そのうち新田軍三千余騎が一斉に渡河し接戦となったが、斯波軍の背後に回った新田軍が府中に火を放ったので、斯波方三千余騎は追いすがる新田軍と戦いながら府中へ引き返し、拠点の新善光寺城へ戻ろうとしたが、自 らが築造した木戸・逆茂木に妨げられて入城できず、ついに新善光寺城を捨て、斯波家兼は若狭へ、高経の率いる二千余は大虫、織田を経て足羽へ逃れ ることとなった。
 こうして府中は新田軍の手に落ち、この後戦乱は、斯波高経の立てこもる足羽七城へと移っていくことになる。

 現在、城跡には正覚寺が建立されているが、これは貞治五年良如智水の開基で、新善光寺城跡を寺地とした。開基良如は、越前真宗三門徒派の開祖大町専修寺の如導の嫡子と伝えられる。

 正覚寺境内地は正徳元年府中惣絵図によれば、南側約九十間、北側約四三間、東側約七六間、西側約六四間と広大で、後方には土塁が残存し、その外方にはさらに堀を巡らしてあることがわかる。
 現在でも、寺の北側駐車場に東西に土塁の跡が残っている。

 しかし、三峰への脇屋義助の入城に大きな役割を演じた平泉寺衆徒は、再び斯波方に寝返り、「足羽七城」の一つ藤島城に篭り 、新田軍に対峙した。このため、この年の閏七月二日、新田義貞は、いつまでも落城しない藤島城の攻撃体制の偵察と応援に出陣したが 、同じく応援に駆けつける斯波軍と燈明寺畷で遭遇戦となり、あっけない戦死となってしまうのである。
 

 なお、正覚寺の山門は本多氏の府中城(館)表門を移築したものである。

 

地図はここです(JR武生駅から正面へまっすぐ進むと総社に突き当たる。その裏手(西南)で、 徒歩十五分程度)
 

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Copyright (c) 2002 H.Okuyama. All rights reserved. 撮影2000年〜2002年7
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