■■■ 越前・若狭(福井県内)の中・近世城跡の紹介■■■

蕃尾城跡(げんばおじょう 福井県敦賀市刀根)

 玄蕃尾城は福井県(敦賀市刀根)と滋賀県(余呉町柳ケ瀬)の境の山頂に位置し、別名内中尾城とも称される。国指定史跡で、北国街道や刀根越を押さえる要所にある。城郭は250m×160mの大きさである。しっかりした遺構に加えて整備も行き届いており、見事な山城 である。整備では福井県下トップクラスである。平成11年 7月13日付けで国指定史跡となっている。

 この山城は、天正11年、秀吉と柴田勝家が織田信長の後継争いを演じた賤ヶ岳の合戦で、柴田勝家が本陣を置いたところである。
 この年3月の雪解けを待って 勝家の信頼が最も厚いの佐久間盛政を先遣として佐久間安政、柴田勝安らが北ノ庄を進発し、ついで勝家も前田利家らを従え北庄をたって近江伊香郡柳ケ瀬に本陣を構えた。この他不破勝光、原政茂、金森長近、徳山秀現等も従軍し、加賀、能登、越前兵の総力を動員しその兵力は28,000といわれている.。勝家は、越前と近江の国境にあるこの城に本陣を構えた

 戦いの経過をよく知られているが、岐阜城の信孝が兵を挙げたため、秀吉は美濃に向かったが、その間隙を突いて猛将で知られた佐久間盛政が秀吉方大岩山砦まで侵入し奇襲攻撃を敢行。奇襲が成功した盛政は勝家との約束に従わず大岩山から兵を戻さ ず、引き返してきた秀吉軍に反撃され窮地に陥る。盛政も猛将に恥じぬ戦いで何とか撤退に移ることができたもの、盛政軍の背後で陣を構えていた前田利家が兵をまとめて戦場を離脱、これを見た金森長近、不破勝光らも戦線を離脱。これを機に柴田軍は総崩れの状態となり、毛受勝照が勝家の身代りとして奮戦している間に、勝家は北ノ庄へと落ちのび、本陣となった玄蕃尾城は落城した。

 この城が、何時、誰によって築かれたのかははっきりしない。
 勝家によって築かれたとする説も有力だが、果たして短期間にここまで整備できるものであろうか。朝倉時代に、織田信長との緊張が高まるなかで築城が始まり、勝家によって最終的に整備されたと考えるのが妥当のような気がする。
 事実、主郭には天守台のような櫓台をもち近世城郭の様相が垣間見える。この点で朝倉ではなく織田系城郭との見るほうが妥当であろう。

▼刀禰峠頂上 ▼平坦な尾根道

 城跡は滋賀県柳ケ瀬側からも福井県刀根側からもアクセスできるが、福井県側からのアクセスが容易である。
 刀禰峠に向かう林道は頂上近くまで舗装されており、車を降りてから古道の峠道を10分もあるけば刀禰峠に着き、そこから案内標識に従って15分程度登ると玄蕃尾城址に着く。刀禰峠から登 る山道は少し急峻であるが、まもなく幅広い平坦なは尾根道となり、ここからのアクセスは容易で、城址の南端に到着する。
 ここに解説案内板(縄張図)が敦賀市教育委員会によって設置されており、これをデジカメで撮影し、メモ代わりに読み出して位置を確認しながら散策するのが良い。

 

▼主郭 ▼主郭櫓台


 山頂の主郭は30数mの方形で土塁で囲まれ、北東角に前述のとおり10m四方の天守台のような櫓台が置かれている。主郭の周辺は空堀で一部はかなり大きなものもある。
 主郭の北に小さな郭があり、その向こうに大きな北虎口郭があり、郭の中では一番大きい。
 主郭の南側にも北側と同じように小さな郭があり、そのまわりに複数の腰郭が配置されている。案内板の設置されていた付近が大手口虎口である。


 見応え十分で、案内解説板には「本遺構は、極めて限定された時期の城郭の遺構であることから、中世城郭から近世城郭への過渡期にあたる城郭編年の様式遺跡として重要である」と記されている。
 

 

地図はここです
 

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撮影2010年

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