■■■ 越前・若狭(福井県内)の中・近世城跡の紹介■■■

田城跡(ひきたじょう 福井県敦賀市疋田)

 疋田は、西近江路と東近江路が合流する交通・軍事上の要地であり、恵美押勝の乱でも有名な古代三関の一つ愛発(あらち)関の有力此定地でもある
 疋田城は、戦国大名朝倉氏が文明年間に家臣の疋壇久保に築かせた城であり、越前最南端の要衝を守る重要な拠点であった。 疋壇久保は西福寺宛て安堵状が残るので実在が確認されている。

 元亀元年(一五七〇年)四月二十日、織田信長は家康軍を加え近江坂本を出発、越前侵攻に乗り出し、二五日にいよいよ敦賀に攻撃を開始、先ずは手筒山城を攻撃し、激戦の末にこれを落としている。
 敦賀郡司朝倉景恒は手筒山城に隣接する金ヶ崎城に立て籠もっていたが、援軍の到着が遅れるなか不利を悟り、翌日には開城し城を退出した。このため疋壇氏が守る疋田城も開城を余儀なくされている。開城後、信長は疋田城に家臣を差し向け、城を取り壊させたという。ところが四月二六日、突然浅井長政が離反したため、信長は敦賀を脱出し京都を経て岐阜に帰還した。
 この後、朝倉氏は当城を修築し、栂野三郎右衛門尉景仇・藤田八郎左衛門尉の諸将も置き防備を固めた。

 その後姉川の戦いを挟んで、天正元年(一五七三年)八月十三日朝倉義景は刀禰坂戦いで大敗し兵力の大半を失う。朝倉軍は、織田軍の追撃にあいながら一旦この疋田城に篭るも、一四日早朝よりの猛攻に支えきれず落城し、朝倉氏の滅亡を招いた。この時 疋壇氏の将兵五百余人を始め朝倉軍三千余人が討死したとされる。

 現在の城跡は、曲輪の一部がグランドなどとなり失われているものもあるが、本丸や北曲輪は畑地となって、石垣をはじめ結構原形を留めている。畑地部分には猪避けの高電圧線があるから気をつける必要がある。また本丸跡にある一段と高い段丘には 疋田城の石碑がたっている。

▼疋壇氏墓(宗昌寺)
 用水(疎水の跡)の流れている旧道を通り、日吉神社側に入り、その横手から登っていくと、野面積みの石垣 や空堀跡が綺麗に残っており、見応えがある。

 城跡近辺の字に、城(本丸跡)、南城、小丸、中ノ切、登橋(城の西部)、馬場などが残る。また少し離れるが奥野集落には疋壇氏の菩提寺である宗昌寺があり、 横手の山を登ると今も墓が残っている。
 城主であった疋壇氏は、朝倉氏滅亡とともに越前を去り、消息は途絶えるが、後、黒田長政臣の井上氏に仕えたと伝えられている。

地図はここです
 

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撮影2000年-2002年

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