■■■ 越前・若狭(福井県内)の中・近世城跡の紹介■■■

ヶ崎城跡(かながさき 「かねがさき」ともいう 福井県敦賀市)

 敦賀平野の北東部に位置する海抜86m中世の山城で、天筒山から北西に延びる尾根が敦賀湾に突き出て小半島をなしている部分に位置する。
 木曾義仲との戦いの際、平通盛がここに城を築いたのが最初とされているが、ここが有名になったのは、「太平記」に記されているように、建武三年十月皇太子恒良親王と尊良親王を奉じて京都を発った新田義貞や弟の脇屋義助らが、同月十三日気比社大官司気比氏治に迎えられて金ヶ崎城に入ったからである。
 「梅松論」は「無双の要害」と記し「太平記」は「彼の城の有様,三方は海に依って岸高く岩滑なり。巽の方に当れる山(天筒山)一つ。城より少し高くして 、寄手城中を目の下に直下すといえども、岸絶へ、地けわしく崖にして、近付け寄れぬれば」と記している。

 しかし、新田義貞がこの城に入った直後から、越前守護斯波高経の軍勢に囲まれ、翌年正月からは、越前に増派された足利軍に何重にも包囲された。正月十八日に最初の本格的な合戦があったといわれ、太平記はこの間の戦いについて虚実を織り交ぜて物語を展開している。何処まで史実かは判然としないが、孤立した金ヶ崎が餓えに苦しんだことは事実であろう。

 杣山城(南条郡)の瓜生保が荷駄隊を組んで救援に向かうも、敦賀に入る直前の樫曲(かしまがり)で足利軍の今川頼貞軍に迎撃され全滅、瓜生保も戦死した。
 万策尽き果てた義貞は、弟脇屋義助らとともに、闇夜を利用して密かに金崎城を杣山城へ脱出した。嫡男義顕と二人の皇子は金ヶ崎城に残したままで、杣山で体制を立て直し、そこから金ヶ崎城を包囲する足利方に攻撃を与え、金ヶ崎を救出する作戦とも見れるが、大将と副将が城兵を置き去りにするとはあまり例は無い。(脱出は瓜生隊の救援前とする見解もある)

 そのような中、三月三日からの最後の決戦を迎える。必至の防戦に向う新田軍だが、食糧が尽きているなか、兵は思う通りに動くこともできず、一の木戸は破られ、足利軍は本丸をめがけて殺到。二の木戸付近では大激戦ともなったが、飢餓と疲労で体力のない城兵は次つぎと討ち取られ、義貞嫡男の新田義顕は尊良親王とともに自害、三月六日金ヶ崎城はついに落城となった。

 現在でも木戸跡や堀切、本丸跡と言われる月見御殿、親王自刃の地が残されている。

▼古戦場跡碑 ▼親王自刃の地

▼激戦となった二の木戸跡

▼堀切跡

 麓は現在は桜の名所ともなっている金ヶ崎宮があり、横手の遊歩道から登っていくと、頂上近くに金ヶ崎古城跡の碑がある。このあたり一帯が本丸の跡といわれ、最高地の月見御殿からの見晴らしはすばらしい。ここから手筒山方向に向かって歩くと、まず尊良親王自刃の地がある。3ヶ所の木戸跡も残っており、月見御殿(本丸)より南東へ峰つづきに三、二、一 の木戸跡となる。二の城戸から三の城戸あたりでは激しい攻防戦になった所である。

 室町期にはこの城は「敦賀城」として、守護代甲斐氏の一族が守っており、守護斯波義敏と不和になった時は守護軍から攻撃されている。 守護義敏失脚の原因ともなった城である。 
 また朝倉時代には敦賀郡司がここを守護し、元亀元年四月織田信長が越前に侵攻した際には、時の郡司朝倉景恒は、朝倉方の救援が間に合わず降伏、開城した。
 

地図はここです
 

TOPへ戻る一覧に戻る


Copyright (c) 2002 H.Okuyama. All rights reserved.
撮影2002年

本ページへの直接リンクはご遠慮下さい。必ずTOPページか新越前若狭城跡考一覧へリンクして下さい。.
 

 

SEO [PR] お金 ギフト  冷え対策 特産品 動画無料レンタルサーバー SEO