■■■ 越前・若狭(福井県内)の中・近世城跡の紹介■■■

山陣屋跡(まりやまじんや 福井県敦賀市鞠山)

 近世の敦賀を治めたのは酒井家の小浜藩である。その酒井家は相続にあたって、一族に分地することも多く、敦賀郡には鞠山藩領、加知山藩領、井川領など支藩の領地ができ、小浜藩の敦賀役所(陣屋)、鞠山藩(敦賀藩)の鞠山陣屋、加知山藩の野坂代官所、井川領の井川陣屋が存在することとなった。しかし、敦賀を治めたのは敦賀藩の別称を持つ鞠山藩ではなくて、あくまで敦賀町など中心部を支配した小浜藩で、その役所(陣屋)は大谷吉継の敦賀城の跡に在った。
 この点を誤解すると、鞠山藩(敦賀藩)の陣屋の理解についても混乱をきたすことになるのでご注意を。
 
 さて、ここでとりあげる陣屋は、前述したとおりの小浜藩の支藩の一つで、天和二年に2代藩主忠直が没し忠隆が継いだ時、弟の忠稠に敦賀郡で5千石、近江高島郡で5千石、計1万石が分地され て成立した鞠山藩(敦賀藩)のそれである。
 忠稠は、赤崎浦塩込の小鞠山・大鞠山という2つの小山の間に陣屋建設を計画し、貞享四年二月四日着工し四月に完成、この時塩込を鞠山と改名した。陣屋は東西37間・南北31間で、中心となる本陣の総坪数は101坪、ほかに長屋(151坪)、土蔵、乗物小屋、門番所など諸施設が設けられていた。
 鞠山藩は定府(参勤交代をしないで江戸に常住)であったため、藩主はつねに江戸に居住し、陣屋には郡奉行2人、郷代官3人、手代2人を置いていたという。

 鞠山藩の幕末のエピソードを2つばかり紹介。
 安政の大獄で井伊大老が殺害された時、酒井鞠山藩主は本丸若年寄の役にあった。幕閣は大老が暗殺されたとはいえず、井伊大老は重傷ではあるが生きていることにし た。このため将軍の使いとして井伊邸を見舞うことが必要になり、若年寄酒井鞠山藩主が井伊邸を訪問、大老に氷砂糖、鮮魚の見舞いを下賜するなどの役目を背負 わされた。
 また嘉永四年には、敦賀湾を望む領主として、外国船警備のため東浦に四カ所の砲台場を置いた。とくに陣屋のあった鞠山には砲二門を設置したとされている。


 現在、陣屋の跡は鞠山海水浴場と隣接していることもあり、(株)リコーが取得し、社員保養所が建設され て、遺構は何も残っていないが、陣屋跡に隣接して鞠山神社が建立されている。
 これは宝暦元年に酒井忠香が創建したもので、後に藩祖酒井忠稠を合祀し、明治38年3月22日鞠山陣屋跡隣に移転したものである。
 その場所に由緒書きや何の説明もないのは残念である。この鞠山地区には、民宿の案内地図はあるが、史跡の案内や碑は一つもないようだ。それでも神社に佇むと、陣屋の残照が見える気がするから不思議である。

 鞠山の先端は田結浦として、古代万葉集にも詠まれた景勝地であったが、今そこから敦賀新港にかけて大規模な埋め立て、造成がなされ、環境は激変しつつある。

 

地図はここです
 

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撮影2002年7月

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