■■■ 越前・若狭(福井県内)の中・近世城跡の紹介■■■

筒山城跡(てづつやまじょう 福井県敦賀市)

 天筒山城は中世の戦いの舞台となった金ヶ崎城の枝城で、金ヶ崎の南天筒山(171.3m)に構築されている。
 金ヶ崎城ほど有名では無いが、城の堅牢さでは金ヶ崎城を上回ると考えられ、一体となってこそ本来の機能が発揮できる構成である。
 主郭からは敦賀湾はもとより、敦賀市内、旧北陸道、さらに金ヶ崎城の全容も見渡せ、こちらが本城と言ってもいいくらいである。
 稜線伝いに当然金ヶ崎城に繋がっている。

 中世南北朝期の新田義貞と越前守護足利(斯波)高経を中心とする足利軍との抗争や、斯波氏の内訌(長禄合戦など)、織田信長の越前侵攻(朝倉氏攻撃)でも 、戦の舞台となっている城である。
 太平記には、金ヶ崎城に篭る新田義貞に足利軍が対峙する記述のなかで、「巽(たつみ)の方に当れる山一つ、城より少し高ふして、寄手城中を目の下に直下す」という記述があり、ここを拠点にして足利軍が新田軍を攻撃したことがわかる。
 この他では、信長の越前侵攻(朝倉攻撃)以外あまり記録にはでてこない。

 元亀元年(一五七〇年)四月二十日、織田信長は家康軍を加え近江坂本を出発、越前侵攻(朝倉攻撃)に乗り出し、 若狭熊川を経て、二三日佐柿の粟屋越中守勝久の館に着陣し、越前の入口にあたる敦賀攻撃の準備にとりかかった。
 敦賀は朝倉宗滴の流れを汲む敦賀郡司家が代々治め、このときは朝倉中務大輔景恒が郡司を務めていた。景恒は金ヶ崎城に立て篭もり、隣接する天筒山城には寺田采女正を守備にあたらせていた。
 一方朝倉義景は一乗谷の守備に二千余、国内の守備に四千五百余をあて、自らは一万四千の兵にて敦賀に向かったが、その歩みは遅かった。
 二五日十万を越える織田軍は一斉に天筒山城の攻撃にかかった。要害の地である天筒山城の攻防は大激戦となったが、信長軍は樫曲に回り込み湿地帯から攻め上がり、双方に多大な犠牲をだしながら、ようやくこれを落とすことに成功した。
 信長重臣の森可成の嫡男可隆(欄丸の長兄)が、討死にしたのがこの戦いで、一番乗りを目指し深入りしすぎたのが原因とされている。初陣で十九歳であったと言われる。

 天筒山城を落とされた景恒は、援軍の到着が遅れるなか不利を悟り、翌日には金ヶ崎城を開城、織田軍に渡し退出した。
 ところが二六日、突然浅井長政が離反したため、信長は敦賀を 身一つで脱出し、京都に逃げ戻る羽目となる。
 しかし、開城に追い込まれた朝倉景恒は自責の念にかられ、永平寺に入り、失意のうちに翌元亀二年九月二八日病没した。



 天筒山城はその後廃城となったが、現在では公園化されており、主郭をはじめ遺構が稜線に沿って残っている。
 主郭から金ヶ崎城に向かう地点(北西)の郭(標高106m)、主郭から南に伸びる南郭(標高138m)、さらに余座方面の余座郭(標高80m)と大きく4つの郭から構成されており、かなりの規模となっている。
 特に主郭部は四、五十mの幅、長さを持つ三つの郭から構成され、さらにその北側には見張りの櫓台跡がある。
 おそらく織田軍の侵攻を予測して、朝倉氏によってこの時期大幅に拡張されたのではなかろうか。

 また、郭に向かう稜線には堀切跡も明瞭に見られる。

▼南郭への稜線伝いの道 ▼北側から南郭を見る

地図はここです
 

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撮影2002年-2004年

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