■■■ 越前・若狭(福井県内)の中・近世城跡の紹介■■■

賀城跡(つるがじょう 福井県敦賀市結城町・三島町一丁目)

 中世の太平記の時代から敦賀の合戦といえば、市街地の北東に位置する金ヶ崎城が舞台となっている。また、尾根づたいに南の方には、朝倉時代に築かれた天筒山城があった。
 元亀元年(1570)、信長が越前への進攻を目指したときも、最初に金ヶ崎・天筒山両城を攻めている。

 天正11年4月賤ケ岳の合戦で柴田勝家を滅ぼした秀吉は、敦賀郡を蜂屋頼隆に与えた。蜂屋頼隆は従来の両城に代わり、笙ノ川の西岸に新たに平城を築き始めた。これが敦賀城の始まりである。しかし、頼隆の敦賀支配は、天正17年9月25日彼が九州の参陣先で没したため、わずか七年で終わり、どこまで 築城が進んでいたか明らかではない。

 つぎに領主となったのは秀吉の奉行人の一人でもある大谷吉継で、頼隆の築城を継続し、三重の天守を持つ城を完成させたと考えられている。
 松平文庫に残っている、慶長10年(1605)ごろに作られた越前国絵図には、この三重の天守を持った敦賀城が描かれている。
 絵図でみると、城は敦賀の町と松原とのあいだに措かれている。現在の結城町・三島町一丁目にあたる。また、笙ノ川には、城と町とを結ぶ笙ノ橋が描かれている。これにより、川西地区は大きく変貌するとともに、敦賀も港町に加えて城下町としての役割も持つようになった。
 その規模を推定すると城郭中心部分は、東側は旧笙ノ川、北は真願寺北の堀跡といわれる闇加川、南は八幡神社付近(来迎寺通り)、西は敦賀病院の西の通りぐらいではないか。江戸時代の小浜藩の敦賀役所(陣屋)の位置でもある。尤も南側には家臣団の武家地があり、城郭の一部を構成していたと考えられる。
 天守部分は笙ノ橋と海岸までの間に描かれているから、大体敦賀西小学校の位置とみることができる。西小学校の門横には、現在、大きな敦賀城案内碑が建っている。

 このほか遺構としては前述の北側の堀跡といわれる闇加川真願寺の乾門の礎石、来迎寺表門は敦賀城裏門の移築といわれ、八幡神社の境内に表門の礎石が展示されている。



 吉継時代のエピソードを紹介しよう。
 文禄3年1月秀吉は伏見城の築城にとりかかるが、建設の材木の多くは、出羽の諸大名に命じて調達された。そして、敦賀、若狭、加賀、能登などの商人によって敦賀まで運ばれた。俗に太閤板≠ニ呼ばれたこの資材は吉継の手によって受取り 、移送がなされたのである。

 その吉継も関ケ原の戦いで三成の西軍に味方して戦死、結果越前一国は結城秀康の支配となる。秀康は、敦賀城に家老級の清水孝正を入れた。
 しかし、元和元年(1615)、大坂夏の陣のあと出された一国一城令で、この敦賀城は破却の対象となり、翌二年その姿を消した。
 

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撮影2002年7月

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