多々良浜古戦場跡  
太平記・足利尊氏ゆかりの地を訪ねて


  今年(2010年)の6月、九州南部は豪雨被害に見舞われたが、その間隙を縫うように九州に同僚達と小旅行に出かけた。目的は軍艦島クルーズであったが、残念ながら天候不順で中止となった。その前日、福岡の多々良浜古戦場跡に行って見た。福岡には何回か出かけているものの、これまで日程が合わず、時間がとれなかったが、今回は多々良浜を優先した。何人かに同行しないか声をかけてみたが、もちろん誰も賛同するものはなく、同僚とは別れての単独行動となった。

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 後醍醐帝に反旗を翻した足利尊氏は、建武3年正月京都を支配したが、奥州から北畠顕家が大軍を率いて上洛すると、これに敗れ、丹波から摂津へ逃れた。
 京へ再攻をめざすも、京とその近辺での戦いに敗れ兵庫まで退いた尊氏は、赤松円心などの勧め)で、九州へ落ちることとなった。

 しかし、尊氏はしたたかで、逃走しながらも次の手を打つことを忘れていない。
 足利高経を長門探題として九州との連絡口とし、細川氏を四国に留め置き、水軍の支配を委ね、自分は僅かな手兵で九州へ逃れたのである。

 九州では多々良浜近くの芦屋津付近に上陸したとされる(太平記では筑前国多々良浜の湊としている)。兵は僅に五百人ほどであった。
 尊氏らを迎えたのは肥前の少弐頼尚、筑前の宗像氏範らである。

 一方、宮方は肥後の菊池武敏が中心で、九州の諸豪族の大半が味方し、その軍勢は2万に達したとされる。宮方は博多を攻め、少弐氏の本拠大宰府を襲撃して陥落させ、少弐貞経を自害させるなど、勢いに乗って足利尊氏と決戦すべく多々良浜南の筥崎(はこざき)へと進んだ
 
 足利軍は少弐氏などの援軍を含めても2000そこそこで、兵力の差は歴然としていた。 (両者の兵数については諸説があるが、相当の差があったことはどれも一致している)
 3月2日、多々良浜の北、香椎宮(かしいぐう)から敵勢を見た尊氏は、敗北必至として自害を決意したが、弟の直義に諫められて多々良川へ向かったとされる。
 菊池勢は多々良浜の南筥崎に陣を構えているので、尊氏は多々良川右岸の高台に陣をとった。多々良川をはさんでの対陣である。

▼多々良川現況 ▼多々良浜にかかる多々良橋 ▼尊氏本陣(右岸高台)


 戦いは少数の足利軍が大軍に突入し乱戦となったものの、多数に無勢で押し返され、不利な状況に追い込まれたため、尊氏自らが参戦したとされる。尊氏の参戦を見て宮方 についていた豪族は雪崩を打って足利軍に寝返 ったとされ、菊池軍は大敗を喫した。
 尊氏はこの戦に勝利したことで態勢を立て直し、反撃の軍を率いて東上する。 一方後醍醐帝派は上洛阻止のため新田義貞と楠正成を兵庫に派遣して防戦に努め、史上有名な「湊川の決戦」が展開することになる。

 現在、この古戦場跡には福岡市流通センターなどが建設されており、流通センターの角には兜塚(多々良浜の碑)が建立されているが、昔の面影はどこにもない。
 公共交通の便も、バス停はあるが、本数が少なく便利とはいえない。行きは西鉄千早からタクシーで、帰りは多々良川沿いを小雨の中歩いて地下鉄貝塚駅まで歩いた。雨が降っていたせいもあるが、結構歩いた感じがする。

▼多々良浜碑 ▼兜塚由来碑


 
 

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撮影2010.06

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