幕末会津の残照を訪ねて
 

 昨年秋、会津に行ってきた。激動の幕末を不器用に生きた会津は、一度は訪ねてみたいと思っていた。

 まずは、幕末の藩主松平容保の墓

 平家廟所は東山温泉の入り口近くの山中にある。歴代藩主や子女も葬られている。ともかく広い。
 東西で300間、南北で150間に及ぶ墓域は全国の大名墓所でも屈指の規模と言われている。入り口から墓までかなりあるのであらかじめ見学時間を確保しておく必要がある。
歴代藩主のうち二代目正経をのぞき、三代目正容から九代目容保までは山頂に神式で葬られている(初代は別の場所、二代目と子女は仏式)。

▼会津松平家院内御廟入口 ▼容保墓(鎮石) ▼容保墓所・表石

 高齢者が訪問するにはにはちょっと無理な感じだ。私も注意していたが、降りるさい、雨上がりであったため滑って腰を強く打った。しばらくその場から動けなかった。苔むした石段は打ちどころが悪いと、危ない感じだ。見学者は殆どいないからなおさらである。雨の日は、中高年が一人で行くことはお勧めできない。
 でも拝観しる価値はあると思う。
 

 ヶ城に回ってみる。
会津若松市のシンボルともなっている鶴ヶ城は、戊辰の戦役で有名だが、今年は修築工事のため、全面シートで覆われており、外観を見ることはできなかった。なお本丸は「鶴ヶ城博物館」と通常どおり入館できる。もっとも近世の城はあまり興味がないので、どっちでもいいのだが...。
博物館を見た後で、少し周辺を散策してみた。

 

▼鐘撞堂 ▼本丸御座所跡 ▼月見郎

 

 の正面大手筋に西郷頼母邸跡の碑が建立されている。新政府軍が城下に迫る中、頼母の母・妻・妹・娘ら家族計21人が自決した場所である。会津の悲劇の象徴ともいえる。
 その近くに会津の降伏式が行われた場所(戊辰戦争終結の地)があり、ここに解説板が設置されている。慶応4年9月22日鶴ヶ城に降伏の白旗が掲げられ、戊辰戦争は終結した。

 

▼西郷邸跡の碑 ▼会津戊辰戦争終結の地解説板



 辰戦争時、松平容保の出陣の際陣屋となった滝沢本陣にまわってみる。滝沢峠の城下側のにあり、元来会津藩主が白河街道を通る際の休息所でもあったところである。



 盛山にまわって見る。白虎隊の悲劇の場所である。10代の少年達の未来を奪った点で、寂寞感はあるが、いまでは年間200万人が訪れる観光資源となっているのを見ると違和感が強い。
 階段を見上げると、一瞬腰が引けるが、横にエスカレータみたいな「動く歩道」が設置されているため、すぐにそちらに移動。
 個人的には、白虎隊の存在、自刃に歴史的意義があるとわ思われない。幕末会津の財政のため、会津の民衆は会津藩の過酷な執政に反感をもち、戊辰戦争終結後民衆蜂起にまで至った事実を見ると、どのようにしてこのような意識の変化が会津人におきていったのか、あるいは作られていったのか、興味が持たれるところだ。

  の白虎隊二番隊は戸ノ口原の戦いで潰走し、飯盛山へ逃れたものの、山から見える城下の火災を城 の炎上(落城)と勘違いし、総勢20名が自刃した。1人だけ一命を取り留め79歳まで生きた飯沼貞吉(のち貞雄 )の墓は隊士の墓と少し放れた場所に建てられている。なお自刃した場所は墓から少し離れた場所で、そこにも碑が建立されている。

▼白虎隊墓 ▼飯沼貞吉墓 ▼自刃の地


 虎隊が飯盛山へ逃れる齋に通ったのが戸ノ口洞穴である。もともとは猪苗代湖から会津へ水を引く為に江戸初期から掘られはじめた用水路で、天保年間には飯盛山の中腹から150mの隧道を完成させれいる。訪ねた日には、洞穴から人の声がして、やがて、ぞろぞろと子供と引率の大人が穴からでてきたのびはビックリ。用水の流れを停めて、洞穴通過イベントが行われていたらしい。

▼戸ノ口洞穴 ▼イベント風景 ▼解説碑

 

  ▼妙国寺山門 ▼妙国寺仮埋葬慰霊碑

 後に 白虎隊士の自刃後、放置された遺骸を滝沢村の吉田伊惣治が、最初に埋葬した妙国寺にまわってみた。

 なおこの寺は戊辰戦争で会津藩が降伏後、藩主松平容保が1ヶ月間謹慎した寺でもある。

 

TOPへ一覧へ戻る


Copyright (c) 2011 H.Okuyama. All rights reserved.
撮影2010

SEO [PR] お金 ギフト  冷え対策 特産品 動画無料レンタルサーバー SEO