阿津賀志山防塁跡  
奥州藤原氏と鎌倉軍激突の地を訪ねて


 って見たいが、なかなかその機会にめぐまれない史跡がいくつかある。阿津賀志山防塁もその一つであったが、この夏思い切って出かけてみた。

 防塁は、福島県伊達郡国見町にある平安末期から鎌倉初期の遺構で、奥州藤原氏の鎌倉幕府に対する防御砦で、土塁と堀を延々と構築してある。
 鎌倉幕府軍と奥州藤原氏が、この地で激突した戦いの歴史的意義は大きく、史跡は貴重な歴史資源と思われるが、福島県も地元の国見町もこの史跡専用の観光用パンフレットを作成していない。少々残念である。
 
 治5年7月17日(1189年)、源頼朝奥州平泉制圧に向けて軍を動かし、19日には自ら出陣。頼朝が恐れていた弟の義経は、藤原秀衡亡き後その跡をついだ奥州藤原氏4代目藤原泰衡によって攻められ 、すでに衣川の館で滅亡していた。藤原氏は恭順の意を表明していたが、 頼朝は一大兵力を動員し奥州に向かった。
 中央を進む「大手軍」、太平洋岸を進む「東海道軍」、日本海側から攻め込む「北陸道軍」の3隊にわけ、その数は総勢は25,000以上に達した。

 奥州の藤原軍は、防衛線を現在の福島県県伊達郡と宮城県刈田郡の境として、ここに阿津賀志山中腹から阿武隈川まで約4キロ至る長大な防塁を築きこれを迎え撃った。深さ3m幅13mともいわれる二重、三重の堀で、この空前の土木工事に費やした労働力は一説には40万人ともいわれている。とても短期間にできるものではなく、随分前より鎌倉に備えるために、準備していたことが伺える
 総大将は泰衡の異母兄にあたる藤原国衡で、兵力は20,000と言われる。この時代、武士と農民 は未だ分化しておらず、特に奥州はそうであったと思われる。7月に20,000軍を動かしたのを見ても、藤原氏の力はなお侮れないものであった。

 いは8月8日よりはじまり鎌倉軍は僅か3日間でこれを破った。鎌倉軍の別働隊が大きく迂回して奥州軍の後陣を奇襲し、このため奥州軍は混乱し、態勢を立て直せないまま敗北を喫したのである。総大将であった国衡は和田義盛らに討ち取られたという。泰衡は平泉に火を放ち、蝦夷に向けて逃亡したが、途中で家臣に殺害され奥州藤原氏は滅亡した。

 索をはじめる前に役場に行って、教育委員会作成の国見町史跡・文化財マップを手した。役場の入口 に税務課が設置されており、そこで尋ねたのだが、観光担当部署でないにもかかわらず、親切にパンフを取り出し簡単な説明をしてくれた。(感謝!) 阿津賀志山防塁遺構専用のマップではないが、一応記載されている。裏面は地図になっており、防塁跡も記載されている。便利であり、初めての人は絶対入手すべきであろう。 【末尾に掲載】
 
 津賀志山は、現在では厚樫山(標高289m)と表記され、中腹を東北自動車道が通っている。登山道が整備されていると書かれているため早速向かってみる。
 登山道なので車での進入には不安があったが、頂上までそのまま行くことができ、広くはないが駐車場も在る。頂上には展望台が設置されており、ここからの見晴らしは良く、国見町が見渡せる。

▼厚樫山遠景 ▼展望台 ▼展望台からみた風景


 速、防塁跡を探すが、うまく見つけられない。高低差が、夏草の影響もあり判然としないのである。土地勘があれば、大体の見当をつけて探すこともできるが、はじめて来て全容も眺望しようとしたのが無理だったようである。
 なお登山道の途中に「防塁始点」の案内看板が設置されたいたが、この付近も夏草が繁り、ここでの遺構の探索は断念せざるをえなかった。

▼防塁始点案内 ▼阿津賀志山防塁国道北側地区付近

 
 を降り、防塁と国道4号が交差する地点(地図のA地点)に行ってみる。間違いなく防塁跡である。近くで夏草刈りに従事していた役場の職員に再度防塁跡を尋ねると、旧奥州道中国見峠長坂跡へ行く道を入ると、見所の一つがあると教えられて早速車を乗り入れる。そこ(地図B地点)は解説版も設置され、容易に防塁跡を見て回れる。解説版には防塁の構造についてイメージが記載されている。ここが阿津賀志山防塁国道北側地区といわれているスポットである。

▼A地点 ▼B地点 ▼B地点付近
▼A地点付近 ▼解説板の防塁図

 
 度は阿武隈川に近い遺構南部の下二重堀地区といわれるスポットに行って見る。

 地図はここ 
 
なかなか道が入り組んでいてわかりにくい。しかし、行って見るとかなりのスケールで遺構が残っている。しばらく散策すると防塁を実感でき、感動ものである。
 この遺構に行く途中で「阿津賀志山防塁高橋地区」の案内看板が目に入り、こちらも寄ってみた。平野部に遺構が続いている。
 

▼下二重堀地区案内 ▼下二重堀地区の防塁 ▼高橋地区


 構はこの他の地区にもあるが、今度は鎌倉軍が本陣を置いた源宗山に行ってみる。

 地図はここ 
  
 JR藤田駅の近くの高台で、現在は住宅地になっている。
 南北朝の時代には、この地は霊山城の支城として南朝軍の拠点となっていたが、貞和3(1347)年奥州管領吉良貞家の率いる北軍の攻撃を受け、落城している。室町時代には伊達氏の家臣、藤田氏の居城であったと考えられ、解説板も藤田城跡となっている。
 この地の歴史に深く関わった場所であり、探訪にあたっては欠かせない場所であろう。
 

▼藤田城址 ▼国見町教育委員会発行

 
 

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撮影2010.07

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