継体天皇ゆかりの地を訪ねて(1) 〜近江〜
 継体天皇即位1500年


 福井市の憩いの場である足羽山、そこに鎮座する足羽神社の境内に、本居宣長門下の飛騨高山の国学者田中大秀が、継体天皇の御世系を研究し、これを世に広めるため建立した「継体天皇御世系碑」(けいたいてんのうごせいけいひ)があります。
 碑は門下の橘曙覧や足羽神社の馬来田宮司らが協力して、大秀没後の1847年(弘化4年)に建立されています。因みにこの石は、冨田礼彦の記録によれば、摂津の御影石を船(西回航路)で運んだとされています。そこには、応神天皇から継体天皇までの系図が掘られていますが、確かなことはわかっていません。
(橘曙覧と冨田礼彦については「歴史の見える風景・藁屋跡/橘曙覧と堀名銀山」を参照して下さい)
 
戦後は王朝交代説も強力に主張されています。
 今回は、越前から出て即位した継体大王のゆかりの地を訪ねてみることにしましょう。

『記紀』の記述

 継体大王が越前を出て即位するのは507年2月のこととされています。 
 名は『古事記』では袁本杼、『日本書紀』では男大迹、『上宮記』では乎富等と表記されていますが、発音は「オオド」または「オオト」と考えられています。父は彦主人王(ひこうしおう)、母は振媛(ふりひめ)です。
 なお、「天皇」の呼称が成立するのは天武朝以降のこととされ、それまでは「大王」(おおきみ、だいおう)と呼称されていましたが、ここでは混乱を避けるため以下「天皇」で表記を統一します。
 
 『日本書紀』に、「継体天皇の父彦主人王は近江の高島郡三尾(現滋賀県高島市)の別業にいたが、越前三国坂中井の振媛を妃に迎え、継体を生んだ。しかし、継体が幼少の時、彦主人王が没したため、母の振媛は継体を連れて故郷坂中井の高向(たかむく、現在の坂井市丸岡)へ戻り養育した」とされています。
 そしてオオドが57歳の時、武烈天皇が後嗣定めないまま没したため、有力豪族で大連(おおむらじ)の大伴金村が中心となり他の豪族と協議してオオドを越前から迎え、推戴したとされます。
 継体天皇の出自については諸説がありますが、近江で生まれ越前で育ち、即位したとするのが現在の大勢のようです。
 では継体の父である彦主人王とは、どのような人物だったのでしょうか。
 継体伝説の旅をはじめるにあたって、早速誕生の地、近江にむけ出発しましょう。
 
彦主人王の一族 息長(おきなが)氏

 彦主人王の墓とされるものが近江の高島市安曇川町に現存しています。通称「王塚」とも「ウシ塚」とも呼ばれている田中王塚古墳で、陵墓参考地として宮内庁の管理下に置かれています。場所はJR湖西線安曇川駅附近、駅から徒歩で40分ほどかかりますが、檜並木の立派な参道もあり、良好な雰囲気を保っています。

地図

 円墳形式で径58mとされており、40数基の墓が散在する古墳群の主墳です。古墳の内部には当然立ち入れませんが、近くには継体天皇の母振媛がオオドを出産する時にもたれたとされる石が「もたれ石」として伝承され、安産祈願として石をなでた手でお腹をさする習わしが残っているなど、継体伝説の最初の訪問地にふさわしい場所です。

地図

 近くには金製の耳飾り、冠、沓など豪華な副葬品がまとまって出土したことで有名な鴨稲荷古墳があります。この地域の支配者層の「力」を見せつけているようで、近江から越前にかけて一大勢力を築いていた可能性があります。
 このほか、振媛を祭っている水尾神社や継体天皇を出産した時の胎盤とへその緒を埋めたという伝承がある胞衣塚(えなづか)が残されています。



 さて、彦主人王は近江の高島郡三尾の「別業」(なりどころ)に居たとされていますが、別業とは現在でいうところの支店(営業所)にあたり、裏をかえせば彦主人王を出した氏族は別の場所を本拠とし、三尾もその支配地の一部であったことになります。では何処を本拠にした氏族だったのでしょうか。
今日想定されているのは、琵琶湖の対岸にあたる、天野川の中流から下流域を支配していた息長(おきなが)氏とされています。

 早速、今度は琵琶湖の反対側長浜から米原付近に行ってみましょう。
 現在も米原駅は北陸線と東海道線の乗換駅となっていますが、美濃方面と越(北陸)方面へ分岐する交通の要地であり、天野川河口は大津方面や琵琶湖北岸の塩津とも繋がる水運の拠点でもありました。水陸両方にまたがって支配権を有して、日本海経由の対外交易に深く関わったのではないかと言われています。
 また、時の中央政権であるヤマトに対しも、大きな影響を持っていたとされ、神功皇后伝説をはじめ、何代にも渡って皇后を送り出してきたとされています。
 近くには息長氏ゆかりの古墳が多数点在し、近江でも有数の古墳群居地です。
 オオドの即位にあたっては、息長氏の「血」が最後にはものをいったのかも知れません。

地図

 宮内庁管轄の息長陵や、息長古墳群のなかでも有名な古墳で6世紀前半の前方後円墳である山津照(やまつてる)神社古墳もあります。ただ、息長氏については資料が少なく謎の氏族とも言われています。現在、現地では天野川に架かる「息長橋」や「息長小学校」が息長の名を残すにとどまっています。

 

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(初出 「福井商工会議所報」Chamber 2007年1月号) 一部加筆しています
Copyright (c) 2006 H.Okuyama. All rights reserved.
撮影2006年11月、12月

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