継体天皇ゆかりの地を訪ねて(2) 〜樟葉(枚方)/筒城(京田辺)
 継体天皇即位1500年
 

継体天皇の即位の地 樟葉(くずは)
 
 継体天皇は507年に即位した後、3回遷宮を行っています。最初の即位の地は樟葉(くずは)で、その後筒城(つつき)、弟国(おとくに)と移り最後にヤマトに入り磐余(いわれ)に遷宮しました。ヤマト入りまでに20年近くかかっています。このため「なぜヤマトの地で即位しなかったのか。」「ヤマトに入るまで20年もかかったのは何故か」ということがこれまで継体天皇の謎として議論の対象になってきました。戦後は王朝交代説も主張されるようになります。諡号の「継体」そのものが、新しい王朝を意味していると見ることもできます。血縁があれば当然「継」でなく「嗣」が使われると考えられるからです。
 『日本書紀』は応神天皇の五世の孫としていますが、これも天皇の五世までを皇親と認めるという考えに基づいて記紀編纂時に挿入されたものと考える余地があります。
 いずれにしても、継体天皇以降の系統はわかっていますので、その意味で継体天皇が現在の天皇家の祖ということに変わりはありません。
 ここではこの問題には深入りせず、早速最初の宮で即位の地である樟葉宮跡に行ってみましょう。
 
 樟葉宮については、もちろん正確な跡地はわかっていませんが、現在の大阪府枚方市楠葉丘2丁目にある交野(かたの)天神社附近とされています。樟葉中学校の近くの住宅街の中にあります。京阪電鉄本線の樟葉駅から歩いていくこともできます。なお、車で行かれた場合には交野天神社前の2、3台の駐車できるスペースがありますので、そこに停めることができます。
 交野天神社入口には伝承地の石柱が建立されていますが、林を抜けると貴船神社があり、石階段の登り口、登った所にも石柱が建立されています。説明板も用意されています。
 この場所は、地図で見ると淀川、木津川、桂川が合流する地点で、三大河川を支配管理するには絶好の立地であることがわかります。ヤマトに入らずにこの地に最初の宮を置いたのは、大伴金村からの推戴の話を受諾したときから、豪族間の勢力争いに巻き込まれることなく権力の強化に努めたいとする継体天皇の最初からの政権構想であったのかも知れません。

▼交野天神社 ▼貴船神社
地図

 またこの地は、日本書記で継体が事前に連絡を取ったとされる「馬飼首荒籠(うまかいのおびとあらこ)」の本拠地であり、その進言を受け入れたとの説も主張されています。
 うがった見方をすれば、越前、近江、さらに継体を支持する尾張などの地方豪族連合軍が得意の水運を利用して、一気に畿内に進出し、ヤマトに圧力をかけ、王権の簒奪に動いたとも見てとれます。ちなみに尾張は即位するまでの継体天皇の后であった目子媛(めのこひめ、尾張連草香の女)の出身地で、早くから連合を形成していたと考えられます。このあたりは歴史の永遠の謎です。

 交野天神社は、桓武天皇が長岡京へ遷都したときに神事を行った場所としても知られています。因みに本殿は一間社流造檜皮葺で、応永9年(1402)の建築とされ、室町時代中期の古建築とし て重要文化財に指定されています。
 なお、府指定史跡継体天皇樟葉宮跡伝承地に建っている貴船神社本殿は建立年代は不明ですが、桃山時代に遡る遺構といわれています。
 樟葉宮跡伝承地は市民によって「枚方八景」に選ばれています。

 
 第2の宮 筒城(つつき)

 511年10月、継体天皇は筒城宮(つつきのみや)、現在の京都府京田辺市多々羅附近に遷宮します。早速その宮跡に行ってみましょう。
 正確な場所はわかっていませんが、多々羅地区には「都谷」という地名があり、ちょうど同志社大学のキャンパスにあたるところです。ここを「筒城宮」の推定地とする説はこれを根拠にしています。この附近は、現在同志社大学のキャンパス設置のため、大々的に造成されかつての丘陵の姿は変貌を遂げています。
 「筒城宮址」の石碑は、同志社大学キャンパス内の正門に近い丘にあり、説明板も用意されています。
 碑は二つ建立されています。「筒城宮址」碑は、京田辺市郷土史会が1961年に筒城宮跡を顕彰するために建てた石碑で、当初は現在の同志社国際高校の敷地内に建てられましたが、後にこの場所に移設されたものです。もう一つの「継体天皇皇居故跡」碑は1928年に三宅清治郎によって建立された「安兵衛意志碑」で、これも移設されたものです。(「安兵衛意志碑」 はまた別の機会にとりあげることとします)
「筒城宮址」は甘露寺受長、「継体天皇皇居故跡」は考古学者浜田清陵の筆になります。

▼筒城宮跡碑 ▼碑についての解説板
地図

 遷宮の理由はもちろんわかっていませんが、樟葉から筒城へ遷ったということは、ヤマトへ一歩接近したことになるわけで、その意図と無関係に旧ヤマト勢力には強烈な圧力になったと見ることもできます。
 ただ遷宮した本当の理由はもっと別のところにあったのかも知れません。当時朝鮮半島は動乱の様相にあり、軍事力の強化は倭国にとって最大の課題となっていたと考えることができます。

 筒城宮が置かれた多々羅という地名は鉄を意味しており、この附近が鉄の産地又は鉄の精製に関わりがあったことが推測されます。またこの地域は木津川に面し、その水利権を押さえ、かつ軍事面でも継体天皇にとって欠かせない要地であったのかもしれません。この地はまた継体の出自とされる息長氏や神功皇后伝説と関係の深い場所でもあります。

 筒城宮址は、同志社大学の門で申し出れば誰でも見学可能です。JR学研都市線では同志社前駅、近鉄京都線では興戸駅で下車です。車で訪問された場合は、申し出れば構内の駐車場に停めさせてくれます。

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(初出 「福井商工会議所報」Chamber 2007年1月号) 一部加筆しています
Copyright (c) 2006 H.Okuyama. All rights reserved.
撮影2006年11月、12月

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