八幡原の戦い跡  (上)
川中島の戦い、最大の激戦となった第四次の戦い跡を訪ねて (上)


 
 上杉謙信と武田信玄の戦いは、12年余りに及び、5回の戦闘があったとされるが、諸説あり、正確なことはわからない。その中でも、最大の激戦となったのが、永禄4年9月9日から10日にかけての八幡原の戦いで、第四次川中島の戦いと言われている。

現在の地図はここ

*右図は長野観光協会信州キャンペーン実行員会作成
「信州風林火山」 のパンフレットより引用
 

 越後進出を目指す武田信玄と、越後支配と関東支配の安定を目指す上杉謙信にとって、北信濃の支配は重要な意味を持っていた。この戦による死者は武田軍が4000余、上杉軍が3000余と伝えられ、数字の信憑性はともかく、互いに多数の死者を出す激戦であったことは事実であろう。
 永禄4年8月15日に善光寺に着陣した上杉軍は、一部の兵を善光寺に残し、謙信自ら兵13,000を率いて南下、犀川さらに千曲川を渡り、川中島をつききり、武田軍海津城と相対する妻女山に着陣した。
 戦いの経過は各種資料に詳細に記述されているのでここでは省略し、早速謙信が陣取った妻女山に向かって見る。場所は南長野運動公園(オリンピックスタジアム)の南方である。


 妻女山は武田側の海津城や川中島を見下ろすことができる位置にあり、謙信はこの山から海津城に立ちのぼる炊煙を見て武田方の攻撃を察知したとされる。麓からの標高は100mぐらいで展望台が設置され、見晴らしがいい。地元の人の話では、夕方からは西日で海津城から妻女山の様子は伺えないが、妻女山からは海津城はよく見えるとのことであった。出かけたのが午前中であったので、この雰囲気は残念ながら体験できなかった。
 麓には謙信が妻女山に本陣をかまえた時、槍尻で地面を突いたところ、水が湧き泉ができたといわれる「謙信槍尻之泉」や、山麓の会津比売神社には、必勝祈願の際に馬の鞍を掛けたという「謙信鞍掛の松」跡、「謙信公槍先之清水」が残されている。

▼妻女山展望台 ▼展望台解説板 ▼展望台からの風景
▼謙信槍尻之泉 ▼謙信鞍掛の松の後裔 ▼謙信公槍先之清水

 妻女山に布陣した上杉軍を追い落とすため山本勘助が考案したのが、かの有名な「啄木鳥(きつつき)戦法」である。武田の重臣である高坂弾正、飯富虎昌、馬場信春ら別働隊が辿りついた時には、妻女山は空っぽで、甘粕景持が千曲川沿いに守備陣を敷いていた。
 千曲川の川筋は当時と変わっているが、武田側の作戦を見抜いた謙信は、海津城から察知されないよう妻女山の南西側から山を下り、雨宮の渡しを人馬ともに音を立てず渡り、川中島に 着陣した。
 雨宮の渡しは、古来からの交通の要衝であり、跡地には記念碑と頼山陽のかの有名な「鞭声粛々(べんせいしゅくしゅく)夜河を渡る」の石碑が建立されている。

【頼山陽の詩碑】
鞭聲肅肅夜河を過る
曉に見る千兵の大牙を擁するを
遺恨なり十年一劍を磨き
流星光底に長蛇を逸す

 一方武田信玄が本陣を置いた海津城は、妻女山の東にあたる松代町にある。
 海津城から上杉進軍の報せを聞き、24日に信玄は兵2万を率いて川中島西の山麓に着陣。暫く対峙した後、29日には、川中島の八幡原を横断して海津城に入城した この海津城は、越後勢力との対決に向けて信玄が築城を命じたもので、永禄2年から翌年にかけて整備され 、北信濃の武田側の前線基地として重臣高坂弾正昌信が城主を務めていた。
 この城は、その後も使用されており、江戸期は真田信之が入城し、明治維新まで真田氏の居城(松代城と改称)となったことでも知られている。現在復元細整備がされており、隣接する真田館とともに観光スポットとなっている。
 行ってみると、整備されすぎて、個人的には古城のイメージと合わないため、早々と退散した。

▼海津城址碑 ▼整備された松代城跡

 
(下)に続く
 

TOPへ一覧へ戻る


Copyright (c) 2010 H.Okuyama. All rights reserved.
撮影2010.06

SEO [PR] お金 ギフト  冷え対策 特産品 動画無料レンタルサーバー SEO