野田・福島 信長公記にみる野田・福島の戦い跡を訪ねて
 (現大阪市福島区他)


 2004年春、大阪に所用で出かけた際、野田 ・福島、中島と廻ってきました。
 元亀争乱と呼ばれ、信長が生涯で最も苦戦した戦いの一つ「野田・福島の戦い」の舞台となった場所です。
 元亀元年がこんな年になろうとは、信長のみならず織田軍団は考えてもいなかったのではと思われます。

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 春の越前朝倉攻めでは背後を浅井氏に突かれ、危機一髪京に逃げ戻り、復讐を誓った野村・三田村合戦(姉川合戦)は引き分けにおわり、一息ついているところへ 、将軍義昭から三好三人衆が動き出し、摂津に進出したとの知らせが、岐阜の信長のもとに入った 。
 7月21日三好長逸は阿波で挙兵し、27日摂津中島に上陸したのである。

 「信長、君の出番だよ」といわんばかりの将軍義昭の軍勢催促。信長からすれば「三好三人衆は将軍様の敵でしょう」と言い返してやりたいところであるが、その気持ちをぐっと押さえての出陣だったのではなかろうか。
 この頃将軍義昭は反信長の動きを始めた頃であり、その効果が出始めたものとして一人悦に入っていたのかもしれない。
 もちろん信長も三好三人衆を放って置けなかったことは事実。将軍義昭や京を奪われたら、ここまでの苦労は水泡に帰すのである。
 
 信長は8月20日に岐阜を発ち、23日には京に入り、宿所・本能寺に入った。
 
 後の「本能寺の変」の歴史的現場となるところで、現在その跡地と言われていた本能小学校跡の発掘調査が行われている。発掘の結果、四条坊門通り沿いに自衛用の堀と土塀「惣構(そうがまえ)」跡が確認されたため、本能寺の南端は四条坊門と考えられ、発掘地(本能小学校跡)は本能寺の跡ではな かったことがはっきりした。当時の本能寺は、四条坊門(現在の蛸薬師通)より北で、西は西洞院通り、東が油小路通りであり、従来の碑が在った場所より北側が本能寺の位置ということにな る。「中古京師内外地図」(寛延三年)は四条坊門を中心に南北に推定していたからその間違いがはっきりしたわけである。

▼本能小学校跡発掘現場 ▼本能寺跡石碑
(実際はこの石碑より北側に在った)

 ただ本能寺をめぐってはその北限がどこなのか、いまだに確定しておらず、これからも論争は続くと考えられる。
 
 本能寺で一両日滞在した後、信長は25日に出陣、淀川を越え河内へ入って、枚方の招提道場に陣を取 った。
 この後の「野田福島の戦い」では本願寺と本格的交戦となるが、この時点では、信長は全くそのようなことを想定していなかったことは、これからも解る。なぜなら招提道場はもちろん本願寺の道場であり、蓮如とも関係深い寺院なので ある。

 道場の位置は今も変わっていないが、招提地域は元村らしく路地が入り組んでおり、解りにくいので注意が必要。もちろん車で路地に乗り入れることはやめた方が賢明で ある。

 そして翌26日から織田勢は敵の籠る野田・福島の両城へ攻撃を開始する。
 三好三人衆が進出した野田福島は、JR大阪駅にも近く今ではその面影を見いだすことはできないが、当時は多くの河川に囲まれた要害の州で あった。

▼JR野田駅前 ▼野田城跡碑


 信長は先陣部隊を城に密着させ、配下の武将には天満森周辺の楼の岸や川口に砦や陣地を築かせ、自らは天王寺に本陣を据えたとされてい る。また、織田勢の陣立てを一目見ようと見物に訪れる者も結構多かったと記録されており、この時点では織田軍はまだ余裕があった。

▼JR天王寺駅前 ▼天王寺公園

 さて野田・福島へ進出してきた三好三人衆の内訳だが、三好長逸、三好康長、安宅信康、十河存保、岩成友通、香西佳清、三好政勝らの三好党および細川家当主細川昭元、前美濃国主斎藤龍興らで約 8千人を数えた。信長は、姉川の戦いからまだ日があまり経っていないこともあり、力づくでの戦いは控え、得意の調略で相手側を崩す作戦にでる。このため香西佳清と三好政勝は織田勢に内応し、城中にあって織田勢を引き入れる謀略をすすめたとされ るが、城中の警固は思いのほか厳しく、この謀略は失敗に終わった。8月28日、香西・三好の両将は野田・福島を脱出して天王寺の信長の元に逃亡した。

 信長はまた「三好三人衆は公方様の敵」として、将軍義昭の出馬を強くもとめた。理由としては二つのことが考えられ る。一つは摂津・河内で軍を動かすには、信長ブランドでは役不足で、やはり将軍ブランドのほうが効果が高いこと、二つめには、京に将軍義昭が残っていて、万が一反信長勢力に奪われ推戴された場合、信長の立場は危ういものになってしまうからで ある。
 
 9月3日、将軍義昭が動座し、摂津中島の細川藤賢の居城に入った。この摂津の中島城は何度も築城と廃城を繰り返しており、この時の位置を特定することは困難であるが、おおむね阪急十三駅から十三公園付近とみれば間違いない。将軍義昭が中島城に動座したため、この警護のために信長は、この城をとりまくように砦を築き、稲葉一鉄など美濃衆や佐々成政らを配置して いる。

 9日、信長は天王寺から天満森へ本陣を移した。
 天満森も現在ではその面影はないが、当時は鬱蒼とした森と多数の池があったと思われる。それにしても危険極まりない位置である。なぜなら、天満森は本願寺のある石山(後の大阪城)と野田・福島の中間地点で 、この時、もし本願寺が動いたら、ただでは済まなかったと思われるからである。
 しかし、この頃には信長のもとにも石山本願寺の不穏な動きが入っていた。翌日から三好三人衆が籠もる野田城周囲に散在する入江や堀の埋め立てを開始し、そして12日、信長は天満森を出て将軍義昭ともども野田・福島から十町北にあたる海老江に移って、ここを本陣としている。

 海老江に置かれた本陣は八坂神社付近と見ていい。この神社の創建は不明 だが、記録によれば、この時織田方の先陣の将が戦勝を祈願し、陣馬、陣刀を献じたとされている。
 
 機は熟し、いよいよ総攻撃開始。織田方の先陣の兵は先を争って野田城などの塀際に押し寄せ、圧倒的な軍勢を有する織田方の攻勢のまえに野田・福島の両城は不利な状況に追いつめられてい く。三好三人衆は時間稼ぎもあり、和睦をもちかけるが、信長はこれを拒否して、殲滅戦を指示する。
 しかし総攻撃を開始した12日の夜半、織田軍の戦意を喪失させる一大事が勃発したのである。「石山本願寺の鐘」が打ち鳴らされたので ある。野田・福島が落ちれば石山が危うくなることを察した本願寺がついに決起に踏み切ったのである。
 夜半、響き渡る鐘の音を聞いた織田方の兵士の気持ちはどのようなものだったであろうか。

▼石山本願寺御堂推定地 ▼石山本願寺跡碑

 13日には早くも、石山本願寺勢は織田勢に鉄砲を撃ち入れ交戦状態に入り、織田軍を守勢に追い込む。
 そして翌14日、本願寺勢は石山を出て、天満森に進み、両軍は淀川堤で激突した。織田勢の一番手は佐々成政であったが、乱戦の中で手傷を負って退りぞく。二番手には前田利家が堤通りの中筋を進み、その左右から織田勢は敵勢へ殺到し、乱戦とな った。最初は織田勢が優勢であったともいわれているが、後半は防戦におわれ、この戦いで将軍臣野村越中守が討死している。 前田利家が後に「春日井堤の一番槍」として自慢するのはここでの引き際の話である。

 さらに強風で海水が逆流するなか、三好軍が切った淀川の堤で信長の陣は浸水し、まさに踏んだり蹴ったりの状況となる。今度は逆に信長から三好軍に和睦を働きかけるが拒否されるに至る。
 加えて三好三人衆方には強力な援軍が付いていた。根来衆・雑賀衆・湯川衆および紀伊国奥郡衆約二万が来援し、住吉や天王寺に陣を張って織田勢へ鉄砲三千挺を撃ちかけた。日本の戦史上、鉄砲が 前面に躍り出た最初の戦いであった。砲音は連日天に轟き、黒煙が地を覆ったとされている。

 20日の戦闘でも信長軍は敗北、しかも更なる危機が襲ってきた 。
 姉川の戦いで引き分けた朝倉軍が、湖北に進出してきたのである。
 9月16日、越前朝倉氏と浅井長政の連合軍約三万が近江を南下し、坂本へ押し寄せ、20日には坂本守備隊で宇佐山城主の信長重臣森可成率いる織田軍と激戦 を展開する。しかし朝倉・浅井連合軍の前に織田勢もついに崩れ、森可成・織田九郎信治・青地茂綱・尾藤源内・尾藤又八以下多くの将が討死し、坂本守備の織田勢は打ち砕かれ る。
 朝倉連合軍は大津にも出て馬場・松本へ放火し、21日には逢坂を越えて醍醐・山科を焼き払い一部は洛中に進攻した。

 その事実は信長陣所へもたらされた。
 注進を聞いた信長は、朝倉・浅井軍を都へ入れて将軍御所を奪われては元も子もないため、23日和田惟政・柴田勝家の両人を殿(しんがり)に残して、野田・福島に展開する兵を引き払い、将軍義昭を供奉してみずから中島に出て、京へ引き返すため江口の渡しへ向かった
 江口は、京との船便もここで乗降したとされ、中・近世時代水上交通の要所であ った。阪急上新庄駅から歩いていける現在の南江口近辺と思われる。
 しかしこの時、宇治川・淀川の支流が入り込んでいる江口周辺の水量は多く、勢いもすごかった。しかも、ここもすでに一揆の蜂起下にあり、一揆勢は竹槍を手に対岸に群がる状況で、事態は切迫して いた。尻込みする兵だが、退くこともでき ない状況下で、信長自身が先頭で馬を川へ乗り入れ、全軍に渡河を命じたとされている。
 織田軍の軍律や統制は有名なところで、この時も信長の命令ということもあり、一斉に渡河し、追撃する兵を振り切ってようやく京へ戻った。

 しかし、信長の苦難はこれだけでは無かった。
 さらに辛い「志賀の陣」が待っていたのである。

 

 大阪を廻ると、京都と違い、その変貌(遺跡の消失)を実感させられる。今回は特にそのことを感じた探訪であった。
 

地図はここ

元亀争乱のうち「元亀元年の戦い」(野田・福島の戦いをはじめ、信長生涯の三大危機)を分館「戦国大名越前朝倉氏」で掲載しています。ここから入れます。
 

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Copyright (c) 2004 H.Okuyama. All rights reserved.
撮影2004年4、5月

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