平野・畠山政長正覚寺跡  (現大阪市平野区加美正覚寺)

 九月中旬(2003.09)、職場の同僚達と岸和田の「だんじりまつり」にでかけました。桟敷席4,000円は少し高い気がしますが、見物するには悪くない席。その帰りに平野に立ち寄り正覚寺跡を見て廻りました。

 明応元年、将軍足利義材は近江六角討伐の勝利を宣言し、京にもどったものの、休む間もなく翌年二月河内へと出陣する。
 応仁の乱の一因ともなった畠山氏の内訌(政長、義就の家督争い)は、当事者の一人義就(西軍)がすでに没していたものの、その子義豊(基家)は河内誉田城を拠点に依然抵抗を続けており、幕府管領に在った畠山政長は一気に決着をつけるべく、将軍親征を要請、河内平野郷の正覚寺に布陣した。

▼城跡碑のある旭神社境内 ▼正覚寺城跡碑
▼正覚寺(城)付近現況 ▼正覚寺碑

 本来は畠山氏の私闘であり、将軍が親征するものではなかったが、細川氏とそりが合わない将軍義材は、管領畠山氏へ肩入れするために(もちろん政長から強い要請があった)出陣したと考えら れる。出陣にあたっては武衛斯波義寛をはじめ若狭武田氏、赤松氏、京極氏をはじめ幕府奉公衆、細川氏の被官人、さらには越前朝倉氏の兵も加わっていた。

 ところが、将軍義材不在の京で大事件が勃発する。被官人のみ河内に従軍させ、一人京に残った細川政元がクーデターを起こし、四月二十二日堀越公方足利政知の子清晃(天龍寺塔頭香厳院)を擁立、義材を廃した のである。
 明応の政変である。

 応仁の乱後、足利政権は幕府奉公衆を整備し守護大名の連合から、将軍権力の強化へ向かっていたが、これ以上将軍権力の強化をのぞまない政元は、義材と合わないこともあり、実力者日野富子と幕府政所伊勢貞宗、貞睦の支持を得て、京の畠山氏の屋敷や一党を討ち、下克上を成し遂げたのである。 尤も政元にすれば、主人は将軍義材ではなく日野富子であったのかもしれない。

 将軍義材に従い河内に従軍していた諸大名や奉公衆は、斯波氏、武田氏をはじめ、細川氏の被官人でさえ将軍義材に心を寄せているものが多かったと思われる。このため政元単独のクーデターであれば、河内軍の反転攻勢も可能であったかもしれない。しかし、権威者日野富子が後ろに控えているため、大名も奉公衆も中立を保たざるを得なかった。富子の支持を取り付けた政元の作戦勝ちであった。

 閏四月二六日、京から増派された細川氏の軍と畠山義豊連合軍は正覚寺を攻撃、政長は無念のうちに自刃する。また将軍義材は脱出したものの捕捉されて京に戻され、竜安寺、後に細川被官上原氏邸に軟禁された。
 この戦いで正覚寺は焼失した。

▼畠山政長墓 ▼畠山政長墓所全景

 義材はやがて隙を見て京を脱出、畠山政長の分国であった越中の神保氏を頼る。
 また、畠山氏の内訌は政長の自刃直前に脱出した政長嫡男尚順に引き継がれることになる。

地図はここ

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撮影2003.09

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