鈎(まがり)・将軍足利義尚陣所跡
四月末、京都の子供のところまで、湖東をとおり車で出かけました。今回の目的は近江鈎(まがり)の将軍足利義尚の御所跡。
鈎は、室町幕府9代将軍足利義尚が、長享元年九月(1487年)六角討伐のため近江に出陣し、陣(将軍御所)を置いたところ。
足利義尚は将軍義政の嫡子で母は正室日野冨子。
応仁の乱後、守護の統制は弱まり、国人層による貴族、社寺の荘園の横領が進展。将軍義尚は、守護がその取締りをできないことを口実に親征を固め、近江守護六角高頼が標的にされた。
もちろん守護も、国人層と同じく横領をすすめていたわけで、それだけに、全国の守護大名にとって、この親征ははなはだ迷惑な事であったに違いない。近江には多数の奉公衆が所領を与えられており、六角勢の侵略が寺社本所領だけでなく将軍直属の奉公衆の所領にまで及んでおり、幕府としても放っておけなかったのは事実。
しかしそれ以上に、青年将軍義尚は、守護大名の抑制と将軍権力の強化に強い意欲を持っていたと考えられる。
管領細川政元や従軍した守護大名からすれば「万人恐怖」の足利将軍(義教)の再来にもなりかねないわけで、しぶしぶの出陣であった。反面、京の町衆は、青年将軍の雄姿を一目みようと、出陣当日は大混乱した。
坂本に義尚が着陣すると、六角高頼は対決を避け逃亡。このため義尚は、翌十月に陣を鈎(まがり)の安養寺に移し、甲賀郡に攻め込む。もはや、「この一帯には将軍の敵は全くいない状況」とまで記録されて いるが、青年将軍は今度は下鈎の真宝館に陣を移し、ここに御所を建造して長期戦に備える体制をとる。
本当は京に戻りたくなかったのでは。父親の大御所義政やうるさい母親日野富子のいない新天地で幕府の運営と権力の一元化に取り組みたかったのが真意ではないか。事実上の鈎幕府である。しかし、その義尚も小姓達との酒色、「夜幕府」に取り込まれ、不規則な生活がもとで体調を崩し、その志は挫折、短い生涯をここで終える。推測だが、「夜幕府」は、将軍権力のこれ以上の強化を望まず、妻帯もしないで奇行の多い細川政元が仕掛けた「罠」であったのかもしれない。
長享三年(1489年)三月晦日、将軍義尚の遺体は管領細川政元や母日野冨子に護られ京に帰還、さながら凱旋将軍のような隊列であったと記録されている。泣き崩れる富子が側に寄り添っていなければの話だが。そんな歴史に思いをめぐらしながら鈎を散策してみました。
▼古刹東方山安養寺
▼安養寺境内
▼鈎陣所跡(現在の永正寺)
▼永正寺東側土塁跡
▼西側竹薮の中には濠跡も残るというが今回未確認
▼将軍義尚・鈎の陣碑
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撮影2003.04
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