明治・大正・戰前期の残照

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阿曽隧道
(敦賀市阿曽) 地図

  福井から国道8号を敦賀に向かって南下すると、武生(越前市)を過ぎたあたりから隧道が連なっており、それを過ぎると敦賀市に入り海岸沿いの道程となる。景勝の地である杉津の次が阿曽集落となるが、それを過ぎると間もなくロックシェードが見え 、現在のトンネルへと繋がる。
 注意して見なければ気が付かないが、その海岸突端に阿曽隧道が垣間見える。敦賀側から北上した場合はカーブの先にあるため見ることはできないが、北側から 敦賀に向かって走行すると、気をつけていれば見ることができる(ただし交通の難所であるため、運転しながらは探すことは事故に繋がるので注意が必要である)。


 阿曽隧道は本県最古の隧道とされている。もっともこの隧道は、もともとは人が通り抜けられる程度の幅であったと考えられ、現在 残っている隧道は拡張整備された明治19年の竣工 と考えられる。

 最初の開削は、明治9年当時の敦賀県が敦賀から杉津経由で北進する海岸道路(東浦道と呼ばれた)を計画した際に、鑿られたものである。
 福井県は当時、敦賀県として敦賀に県庁が置かれていたが、県庁所在地をめぐって福井と対立。とはいえ、敦賀県最大の町である福井との交通は欠かせないもので、この道路開削が計画されたのである。
 しかし、維新政府は敦賀県を廃し、福井を含む敦賀県北東部を石川県に、敦賀や小浜など南西部を滋賀県に分属させたためこの計画は中断、しかし隧道だけは残った。
 この分割・分属に対する福井側の反発は大きく、結果として明治14年に現在の福井県が設置され、県庁も福井に置かれ、県域と県庁をめぐるゴタゴタは一応ピリオドを打つことになる。

 その福井県にとっての大きな課題が車道の開削であった。従来の今庄を経由して木の芽峠越えで敦賀に至る北陸道に代わり、府中(武生)から海岸沿いに敦賀に繋がる新たな車道(春日野道)の開削は、福井の 経済界が中心になり産業振興に不可欠な物流網整備の観点から推進された。 (「明治福井のまちおこし」参照
 この時期は、ちょうど荷車や人力車が増加していた時に当たっていた。すでに敦賀までは鉄道が敷かれ敦賀駅と金ヶ崎駅が開業していた ことも大きな要因であった。

 福井商法会議所(商工会議所)の運動が実って、明治18年8月28日に春日野道は着工にこぎ着けるが、阿曽隧道もこの車道開削ルートに組み入れられ、再整備されることとなる。

 これに先立つ明治16年7月8日、敦賀一帯を襲った暴風雨で、隧道は中程から崩落して、暫く放置されていたが、春日野道着工とともに再整備されたと考えられる。明治9年の工事跡は殆ど残っていないと考えるのが妥当であろう。

▼阿曽集落 ▼北側からみた隧道

 出入口部分だけは石造り、中間部分は素堀のままという中途半端な形で再度整備されている。長さ52.5mと短い隧道なのに、何故このような半端な仕上げをしたのか不明であるが、あえて推測すれば、海岸沿いは崖でしかも曲折しており難所にあたることから、当初から山側に新たな隧道を掘ることを想定していたのかも知れない。扁額が掲げられていないのもこのためではなかろうか。 

▼隧道内部 ▼北側に残る慰霊碑

 難所を象徴するように。隧道の北側国道8号沿いには、この時の開削工事の慰霊碑が今も残っている。慰霊碑には事故が起きた日時と4名の犠牲者の名が刻まれている。

 明治19年6月25日午後6時30分、大音響とともに岩石の崩落事故が発生、富山県から来ていた数名の石工がこの事故に巻き込まれた。事故発生を聞いた県の津田土木課長は急遽現場に入り、救出の指揮を執ったとされる。事故に巻き込まれた石工のうち高山 某は崖下に落ち重傷ではあったものの一命を取り留めたが、4人が死亡した。慰霊碑にはこの時死亡した福島宅治郎、高山彦三郎、橘大右衛門、田中為三の4人の名が刻まれている。このうち橘大右衛門は岩の隙間が幸いして救出された時まだ息があったが、敦賀病院へ搬送する途中絶命した。尊い犠牲であった(合掌)。
 このような事故は他の工事現場でも起きていたと想定されるが、記録としては残っていない。

 明治19年末、この隧道と並行して工事していた、春日野隧道、金ヶ崎隧道ともども竣工した。

*車道開鑿の背景については 「明治福井のまちおこし」 を参照 してください

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