福井繊維産業史入門(これから学ばれる若い人達へ)


 戸時代、福井の絹織物業は「奉書紬」と 呼称され、その高い品質と年1万疋といわれた生産量で藩の財政基盤となっていた。
 維新後の殖産興業でも当然のことながら、絹織物の振興は大きな課題であった。

 治4年、旧藩士由利公正は欧米を視察し、多種の絹布見本を持ち帰り、酒井功ら福井の機業家に欧米絹業の発展と状況を伝え、一層の奮起を促したとされる。
 明治10年4月、酒井功、村野近良、富田四方介、長谷部弘連らの士族14人は共同出資して毛矢町に長屋一棟を借りうけ、織機10台を備えて「織工会社」を開業した。
 当初は綾織ハンカチーフと傘地を製織したが、職工の未熟と機具等の不備により良品の製織は難しく会社経営は楽ではなかった。しかし、同社から製織法の伝習をうけた起業家が織物業に参入するなど福井での絹織物業の発展に少なくない貢献をしたことも事実である。

 治十年代後半に入ると、桐生・足利から羽二重が米国へ輸出されはじめ、羽二重の需要が高まるなか、福井や粟田部の仲買商から羽二重輸出好況の情報がもたらされるとともに、明治19年頃には福井にも羽二重の注文が来るようになった。
 しかし、当時の福井には羽二重製織の技術は無く、このため、福井でも新技術導入の機運が起き、技術教師の選定が課題となり、業界はこの人選を村野文次郎に依頼した。
 村野は桐生の森山芳平と相談し、森山芳平工場の織物技術者高力直寛の招聘が決まる。翌20年3月に高力は来福し織工会社で羽二重講習会が行われ製織技術を指導した。これが「羽二重王国福井」誕生のきっかけとなった。

 の後、市内の各機業場には伝習所が設けられ、織工の技術の習得がすすみ、福井の士族や商人を中心に機業を経営する者が急激に増大し、これが周辺の勝山、粟田部、丸岡、鯖江などに波及し、県内各地にひろがっていくことになる。

 治の中頃に入ると、当時としては最新鋭のバッタン機を次々と導入、海外の需要急増もあって明治28年には羽二重製織工場が3,000を超え、明治30年代半ばには桐生を追い抜き、やがてわが国最大規模の羽二重産地に躍進する。
 こうした産地の拡大を支えたのは、織物金融の発展で、その中心的な役割を果たしていた銀行が地元士族の出資経営する第九十二国立銀行であった。
 その仕組みは荷為替付取引の発展を背景としたものであった。
 生糸商は機業家に対して生糸売却代金の延払いを認めて信用供与を実施。
 銀行は、生糸商に対して荷為替を取立てるかたわらで生糸を担保とした貸付を実施。また、羽二重商に対しては荷為替を取組むというかたちで、資金提供を行ったのである。

 治30年代末になると、海外での保護貿易主義が高まり、羽二重輸出は停滞を余儀なくされるが、それを打開したのが力織機の導入であった。
 明治35年に設置された県工業試験場では力織機による試織を行っており、業界では明治末期から力織機への転換が急速に進む。しかも、動力には電力が採用され、電力事業の発展と電動力織機の普及とが相乗効果をともなって進展することになる。

 た繊維機械の発展は本県に機械工業の発展も促す。この他産地形成には染色・精錬業や化学産業の発展も欠かせないもので、これらが相互に媒介しながら羽二重王国を形成することになる。

 明治福井の繊維産業の研究は裾野が広いため、全体の鳥瞰図を自分で作成しながら学ぶことが必要です。
 

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