明治・大正・戰前期に福井経済を牽引した起業家や経済人の事績
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明治前期福井経済界のリーダー
伊藤 真 (いとう まこと)

伊藤真は、福井藩士出身で、官吏を務めた後民間に転出し、商工会議所の前身となる「福井商法会議所」を創設するなど、明治前期の福井経済のリーダーを努めた人物である。

 福井藩は維新前後から藩の立て直し「富国策」の一環として殖産興業に力をいれ、大きな成果をあげていたが、維新後も同様に人材の登用と産業振興に力をいれ、福井の活性化をすすめていた。
 明治前期経済界のリーダ伊藤真も下級武士の出身であったが、廃藩置県後、足羽県、敦賀県、石川県とネコの目のように行政区域が統廃合を繰り返すなかで、官吏をつとめながら福井の殖産振興に務めていた。藩政時代には物産総会所につとめ、廃藩後も官吏として一貫してこの任にあたり、敦賀県時代には勧業掛さらに勧業課長の職にあった。

 伊藤と同じ元福井藩士で、繊維業界の功労者とされる酒井功は、京キ勧業場でバッタン機・ジャガードの伝習の話を聞き、明治8年、福井の繊維産業振興のため京都への伝修生の派遣を敦賀県に要請した。
 この時敦賀県には、産業振興に熱心な伊藤真が勧業課長として在籍していたこともあり、酒井の要請は県当局に聞き入れられ、細井順子他1名の京都への伝習生派遣が実現する。
 また伊藤真は織り技術だけでなく、染色技術の重要性を指摘し、染色伝修生として旧福井藩士である村野近良の子、村野文次郎の京都派遣も行なっている。
 村野文次郎は、後に「羽二重」技術を福井に導入した最大の功労者となるが、この京キ派遣がなければ、その後の福井羽二重は無かったといえるかもしれない。この意味での伊藤の繊維振興に果たした役割は計り知れないものがあるが、この他、伊藤自身が主導したものとしては産業基盤の整備、銀行と商法会議所の創設がある。

 明治9年維新政府は全国府県のさらなる統廃合を断行して、敦賀県を解体し嶺北を石川県に嶺南を滋賀県に分属させた。この敦賀県の解体と越前7郡の石川県への統合に際して、伊藤は一旦は石川県庁に勤めるが、このままでは福井が石川に飲み込まれ衰退は免れないと考え、官吏辞職に踏み切った。

 石川県の官吏を退任した伊藤は 、早速福井の産業振興に向けて動き出す。

 先ず、産業振興に不可欠な銀行を創設、これが「本県金融界の覇王」と言われた「第九十二国立銀行」である。頭取には福井藩元家老が就任したが、経営一切は実質上の頭取たる伊藤真(副支配人)に委ねられた。本県で最大、北陸でも2番目の大型銀行で、伊藤は特に織物金融に力を入れ、荷為替や無担保融資などに意欲的に取り組み、本県の繊維産業の基盤確立に多大な貢献をする。

 商法会議所の創設も彼の仕事であった。地域経済の振興に果たすうえでその必要性を認識して、金沢に先行し明治13年4月24日「福井商法会議所」を創設、ここを拠点にさまざまな事業に取り組む。

 その一つに物資輸送のための物流網の確保、木の芽峠に代わる新たな車道建設がある。
 明治18年8月13日臨時商法会議所大会を開催し、道路建設を強力に乗り出し、武生、敦賀の商工界の支援を取り付け、在京旧領主など各界から募金をつのり、県会に働きかけ、着工にこぎつけ、明治20年嶺北、嶺南がはじめて車道で接続したのである。
 これが春日野道でのちに国道12号(後さらに国道8号)となり、物資搬送の動脈となるのである。彼は国道8号の生みの親であった。
(写真は廃道となって、ひっそりと山中に残る春日野道・春日野隧道)

 また、民力の振興には情報の持つ意義が極めて大きいことを見てとり「福井新聞」を創刊、発行部数は当初1000部前後であったが、民衆の知識欲をたかめ、「生涯学習」ブームを引き起こし、福井における最初の情報革命を担った。

 明治22年前後、伊藤は、旧福井藩士で敦賀県・石川県時代の同僚であった石田磊を金沢から福井に呼び戻し、九十二銀行の支配人に据え、これらの事業から引退することになるが、その間、産業基盤整備、不況対策など多くの課題に積極的に取り組み、まぎれもなく明治前期福井経済界のリーダーを務めた。

*伊藤真の詳細事績は講演録「明治福井のまちおこし」を参照下さい
 

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